特集

氷川丸の歴史を巡る旅

798.jpg

横浜を初めて訪れた方も、もちろんハマっ子も!横浜の歴史に触れることにより、もっと横浜が好きになる「横浜観光親善大使と巡る歴史旅 ヨコハマ再発見」!第3回目は、今年90歳を迎える日本郵船氷川丸(以下氷川丸と記載)を中心に、山下公園周辺をご紹介します。

 

 

旅のナビゲーターはもちろん第18代横浜観光親善大使の稲垣薫(いながきかおる)さんと首藤櫻(しゅどうさくら)さん。「歴史旅 ヨコハマ再発見」、すっかり“いた”についてきましたね!今日もご案内よろしくお願いします!

 

 

今回の出発はみなとみらい線「元町・中華街駅」から。スマートフォンアプリのマイルートを起動して、いざ出発!

 

 

まずは徒歩で山下公園へ。
山下公園は、1930年に開園した公園で、関東大震災のがれきを埋め立てられて造られました。海への眺望、記念碑や歌碑など見どころの多く、横浜ベイブリッジや港を行き交う船の眺めが素敵です。童謡で馴染みの深い「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から1937年に寄贈された「インド水塔」、姉妹都市であるアメリカ・サンディエゴ市寄贈の「水の守護神」など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑が多いことでも有名ですね。また、山下公園は横浜のバラの名所でもあり、毎年春と秋の時期には、「未来のバラ園」にたくさんのバラが咲き誇ります。

そんなこんなであっという間に日本郵船氷川丸に到着。横浜の観光のシンボルの一つとしてハマっ子にはおなじみです。

 

 

まずは、氷川丸の歴史をご紹介!

 

 

提供:日本郵船歴史博物館 「竣工時の氷川丸」


氷川丸は、日本郵船が1930 年にシアトル航路用に建造した貨客船で、当時の最新鋭の船として竣工しました。戦争中は海軍特設病院船となり、終戦まで沈没を免れ、戦後は貨客船に戻り1953年にシアトル航路に復帰。船齢30年に達し第一線を退くまでに、太平洋横断254回、船客数は2万5千余名と活躍した、歴史深い船です。1960年に引退した後、1961年より、山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンしました。戦前の日本で建造され、現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価されており、2016年に重要文化財に指定されました。そして今年めでたく90歳の卒寿(そつじゅ)を迎えました。

 

 

 

それでは客室からご案内します。お部屋は狭いですが、クラシカルホテルのようなお部屋で、なんとお風呂もあるんですね。客室の廊下の窓からのワンショット。みなとみらいが丸い船窓から・・・とてもインスタ映えする景色です。

 

 

船が海外へ渡る唯一の交通手段だった当時、氷川丸にも多くの著名人が乗船したそうです。映画「街の灯」の完成後、日本を観光で訪れていたチャーリー・チャップリンは1932年横浜から氷川丸に乗船して帰国の途に就きました。講道館柔道の創始者、嘉納治五郎は1938年カイロで開かれたICO総会に出席し、柔道普及活動を行っての帰路、バンクーバーから氷川丸に乗船し、船内で帰らぬ人になりました。そういえばNHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」でもその船内の様子が撮影セットとして描かれていましたね。

 

 

提供:日本郵船歴史博物館 「氷川丸 絵葉書」

 

 

ここは一等食堂。一等船客専用のダイニングサロンです。長旅の唯一の楽しみは食事だったそう。船幅いっぱいにスペースをとった広い部屋、アール・デコの装飾、中央の高い天井などにより、メインダイニングとしての豪華なしつらえです。隣には一等児童室も兼ね子供の世話をする「スチュワーデス」と呼ばれる女性乗務員もいたそうです。でも船の構造って、真ん中が高くて船の両端に向かって傾斜しているんですね。ちょっと面白いですね。

 

 

こんなところにも帆船をモチーフにしたステンドグラスが施されています。

 

 

一等特別室に通じる翼をひろげた両翼のクラシカルな階段、日本が誇る当時の豪華客船の風格が漂います。

 

 

提供:日本郵船歴史博物館 「氷川丸 戦前のパンフレット」

 

 

二人は操舵室まであがってきました。操舵室は船の総司令室。運転士(現在の航海士)が24時間体制で船の安全を守る場所です。操舵室の後部には無線室がありますが、竣工当時は海図室でした。また操舵室の真下には、船長室があり、何か起こったときにはすばやく対応できるようになっています。「大きな氷川丸を操縦している操舵室から見える横浜港の景色、普段なかなか目にすることのない大きな舵輪のインパクト、多くの計測機が印象的です!」とお二人は話してくれました。

 

 

デッキからの眺めは「ザ・ヨコハマハーバービュー」が広がっていて記念写真には絶好のスポットです。お二人も子どもの頃に来て以来の乗船でしたが、新たな発見がたくさんあったようですね。

 

 

さてさて一行は、機関室まで降りてきました。ここは、現役時代そのままのエンジンを見学できます。8つの気筒で構成されるディーゼルエンジンが、右と左に1基ずつ設置されています。気筒内のピストン上下運動によりクランク軸を回転させ、プロペラを回して船を動かすそうです。さすが氷川丸の心臓部!

 

 

最後に氷川丸の大内船長とご挨拶。船長からは「今年、氷川丸は記念すべき90周年でしたが、新型コロナウイルスの影響で予定をしていたイベントが中止となりました。来年91周年と90周年が共にできればと願っています。」というお言葉を頂きました。大内船長ありがとうございました!

その後は、銀杏並木の通りを渡ってホテルニューグランドの本館正面玄関にやってきました。

 

 

この本館、1927年開業。銀座和光などを設計した「渡辺仁」によるもので、クラッシックホテルの代表格です。マッカーサー元帥をはじめ、チャップリンやベ―ブ・ルース、横浜を代表する「鞍馬天狗」の生みの親の作家 大仏次郎が宿泊して執筆をしたことでも有名です。1992年には横浜市認定の歴史的建造物になり。2007年には経済産業省の選んだ近代化産業遺産の認定を受けています。ヨーロピアンテイストを基調にした風格ある建物は長きにわたり横浜の山下公園前のシンボルとして、親しまれています。

 

 

ホテルニューグランド内にある、コーヒーハウス「ザ・カフェ」で休憩をすることにしました。

 

 

冬空の中、ここから眺める山下公園は外国に来たような錯覚を覚えますね。

 

 

ホテルニューグランド発祥の伝統料理。このホテルで誕生し、日本全国へ広がった料理といえば「ドリア」左「ナポリタン」右「プリンアラモード」上の3つの料理が有名ですね。

■シーフードドリア
初代料理長のサリーワイルが体調を崩した外国人客のために、何か喉の通りの良いものを生み出した一品です。

■スパゲッティ ナポリタン
2代目総料理長入江茂忠が、米兵が茹でたスパゲッティに塩、胡椒、トマトケチャップを和えた物を食べているのを見て、アレンジを加えて生み出した一品です。

■プリン ア ラ モード
ホテルが接収されていた時、アメリカ人将校夫人たちを喜ばせたいと、当時のパティシエが考案したメニュー。見た目の華やかさや、アメリカ人でも満足できるボリュームを考えて作られたものです。

どれも日本洋食の定番中の定番といっても過言ではありませんよね。

 

 

ホテルの中庭に出てみると、歴史ある風格の中にヨーロッパ調の噴水。クリスマス時期には素敵なイルミネーションで彩られ、食事の後のロマンチックな雰囲気を演出してくれます。クリスマスイブにもう一度来てみたいですね。

 

 

本館正面の大階段、青く美しい絨毯の階段があります。階下から見上げる眺めは圧巻。以前はこの階段の上にレセプション(ホテル受付)があったとのこと。取材に行った日はウエディングドレスを着た新郎新婦が写真撮影をしていました。ちょっとうらやましい光景でしたね。

 

 

ホテルニューグランドを後に、再び山下公園へ。カモメの水兵さん歌碑の前にやってきました。昭和12年に発表された童謡『かもめの水兵さん』。作詞者の武内俊子さんは、ハワイに旅行する叔父を見送るために横浜港の大さん橋に来たときに、かもめを題材にして作詞したと言われています。山下公園の氷川丸が見える地に歌碑が立っています。はい二人で敬礼!

 

 

水の守護神像の前でハイポーズ!背景のホテルニューグランドの看板がちょっと外国のまちに来たよう。今はコロナ禍で海外に行くのが難しいですが、ここは元町・中華街駅からすぐの外国の公園といった雰囲気です。この噴水、横浜と姉妹都市を結ぶアメリカ合衆国カリフォルニア州のサンディエゴ(San Diego)から寄贈されたものだそう。夜になるとライトアップされ、港ヨコハマの気分をさらに盛り上げてくれます。

 

 

提供:横浜市都市発展記念館 「ホテルニューグランドから望む山下公園」


この絵葉書は、昭和初期の山下公園。外国人観光客を意識して、「和」のイメージが演出されています。遠くには大さん橋も望めます。

 

 

赤い靴を履いた女の子像のところまで歩いてやってきました。像を寄贈したのは赤い靴を愛する市民の会(現・赤い靴記念文化事業団)だそうです。2010年には山下公園の少女像と同型の像が、横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市の海辺に建立されました。海の彼方に向かって座っている少女の姿は、童謡の歌詞を考えると切ない、悲しい姿ですね。野口雨情の『赤い靴』の女の子については、静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身の岩崎かよの娘・佐野きみとされてきましたが、諸説あって定かではないそうです。そういえば、横浜市交通局の観光スポット周遊バスも「あかいくつ」も、やはり野口雨情の『赤い靴』をモチーフにした名前がついています。横浜観光親善大使の制服の赤と赤い靴の女の子のイメージがマッチしていますね。ハイポーズ

 

 

提供:横浜市都市発展記念館 「博覧会会場入り口」


上の絵葉書は、1935年に震災の復興を記念して山下公園で開催された「復興記念横浜大博覧会」の絵葉書。3か月で320万人を超える来場者がありました。メインのアトラクションは「生鯨館」で本物の鯨を泳がせたそうですが、会期中に死んでしまうエピソードもありました。

 

 

インド水塔の前でハイポーズ
山下公園の西端(大さん橋側)にあるインド式の水飲み場がインド水塔。1923年の関東大震災では、横浜在住の在日インド人が多数被災しましたが、その救済のために横浜市民が尽力。震災の瓦礫処分場だった山下公園に、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために1939年に在日インド人協会が建立したのがインド水塔です。

 

 

山下公園内にはほかにどんな記念碑があるのか散策してみましょう。

 

 

さっそく発見!ちょっと変わった記念碑です。「ZANGIRI」と刻まれた白亜の像が立っています。意外に知られていませんが、これが西洋理髪発祥の地碑。日本初の西洋理髪店は、1864年に外国人居留地(山下居留地)70番で誕生。「西洋理髪店事始め」は横浜の居留地だったのです。お二人も初めて知りましたね。

 

 

山下公園通りに出て銀杏並木を歩きます。四季を通じて銀杏の彩の変化は歩いてワクワクしますね。日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)により、1859年7月1日に横浜港が開港すると、現在の日本大通りの西側に居留地が設けられますが、その海岸沿いの道がBUND(海岸通り)。関東大震災後に海岸は瓦礫で埋め立てられ、跡地が公園となって山下公園通りが生まれました。「日本の道百選」にも選定されています。山下公園通りは横浜の開港と深いつながりがあり、横浜の歴史と深い繋がりがあるのを改めて知ることができました。

 

 

さて、山下公園前からは、横浜の新しい観光の足としてすっかり定着したシクロポリタンに乗り込みました。乗り心地は思ったより良くて快適です!今日の運転手の長谷部さん、この道10年ベテランのドライバー「横濱が好きで横浜の観光の仕事に携わりたい!」とシクロポリタンのドライバーになったと話してくれました。

 

 

ベトナムの「シクロ」やタイの「トゥクトゥク」など、三輪車型タクシーは東南アジア諸国の風物詩として知られていますが、 Cyclopolitain(シクロポリタン)は2003 年にフランスで、三輪自転車タクシー「Cyclo(シクロ)」に市民である「Metropolitain(英語:Metropolitan・メトロポリタン)」を掛け合わせた次世代の環境配慮型タクシーとして登場したとのことです。横浜の観光名所を巡れますので、横浜に遊びに来た際にはぜひ乗ってみてください!

今回は氷川丸の90歳を祝い、山下公園周辺を散策してみましたが、みなさんいかがだったでしょうか。横浜観光親善大使の薫さん、櫻さん、このままシクロポリタンに乗って横浜観光に行きたい気分ですね。次回はどんな歴史を発見しましょうか。

<取材協力先一覧>
※お店の営業時間などは変更になっている場合があります。
事前にお調べになってからお出かけください。


<協力>
公益財団法人横浜観光コンベンション・ビューロー
横浜高速鉄道㈱

レポート:小嶋 寛
写真:清水和成

 

ヨコハマ再発見
山下公園・横浜中華街
SHARE