横浜は明治の開港からの歴史がクローズアップされていいますが、実は約400年前から江戸に近い、交通の要所として有名でした。
江戸、日本橋を早朝出発。女性の足では保土ヶ谷泊り、健脚の男性であれば、権太坂を越えて、戸塚宿まで旅の1日目の行程でした。今回は「東海道宿場印プロジェクト」で発行さえている東海道御宿場印帳を持って、横浜の3宿を巡ります。もちろんこの旅を案内するのは、横浜生まれ横浜育ちの高校生、陣あいりです。
さあ、まずは、myrouteをセットアップ。元気に参(まい)ろうぞ!スタートは京急東神奈川駅。
「東海道御宿場印帳」日本橋から三島の宿まで「御宿場印」を挟み込むことができる。
この「東海道御宿場めぐりプロジェクト」は、地域の賑わいを創出するため、かつて宿場町として栄えた東海道日本橋から三島宿までの11宿場に本支店を置く信用金庫と連携し、東海道を来訪した証として各地の観光協会などが「東海道御宿場印めぐり」に協力したのもで、横浜の3つの宿場エリアは、横浜信用金庫が担当をしています。最近は京都までつながっています。
https://www.chushin.co.jp/cms_source/files/20230328289.pdf
詳細:https://hamakore.yokohama/tokaido-meguri-202210/
尚、横浜エリアでの御宿場印(300円)の販売をしているところは、
神奈川宿:慶運寺/sakura cafe/サンオリーブ/魚レストラン マルシェ/横浜マルニカフェダイニング/川窪牛豚肉店
保土ケ谷宿:桑名屋
戸塚宿:交流広場とつか/純喫茶モネ
この錦絵は、「東海道五十三次の内神奈川 台之景」 広重画です。
神奈川を代表する浮世絵で台町に立ち並ぶ茶屋街と旅人の情景が描かれています。左手の海には和船が停泊し、港としての賑わいをうかがわせています。ちょうどこの和船のあたりが現在の横浜駅でしょうか?
現在の写真と比べると、海は埋め立てられて、ビル群が立ち並び、昔を想像ができませんね
東神奈川駅から歩いて5分ほどいくと当時の東海道を復元した松並木とお寺が並ぶストリートに出会います。
その通りの中心には、高札場が復元されていて、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた木製看板です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消してしまいました。
滝の川に沿って山側に進むと、慶運寺前に出ます。開港当時、この寺はフランス領事館でした。
浦島丘にあった観福寿寺が慶応年間の大火で焼失したため、浦島伝説にかかわる記念物がこの寺にもたらされました。それ以来、慶運寺は「浦島寺」とも呼ばれています。浦島太郎が竜宮城に行った時、乙姫様からいただいたという菩薩像などが伝わっています。
さてここがご宿場印を頂ける最初のポイントでまずゲット!
神奈川御宿場印
浦島伝説らしく、カメの形をした手水どころです。
さて鉄道の線路を渡り、なだらかな坂道の途中にある、「横浜割烹 田中家」さんまできました。
田中家のあるこのあたりは、むかしから神奈川台町と呼ばれ、かつては海沿いの景勝地として広く知られていました。その頃の神奈川宿の様子は「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)にも描かれていますが、昼夜を問わず、街道を行き交う人々でたいへんなにぎわいだったそうです。
この黒壁の前にも神奈川宿の案内板があり、田中家さんの前身である「さくらや」と記名がある茶屋が描かれています。
あれ車止めの上にもカメ(亀)が?
さて保土ヶ谷宿にやってきました。ここは相鉄線の天王町駅の駅前の旧帷子橋。江戸時代、東海道が帷子川(かたびらがわ)を渡る地点(今の天王町駅前公園)に架けられていたそうです。絵画、歌や俳句に取り上げられ保土ヶ谷宿の代表的な風景となっています。
歌川広重 東海道五拾三次 保土ケ谷 新町橋
保土ケ谷宿は、慶長6年(1601年)、東海道に宿駅の制度が定められた際に、「伝馬朱印状」という文書が幕府から発給され、幕府公認の宿場として誕生しました。保土ケ谷宿は、江戸から約33km(8里9丁)で品川・川崎・神奈川に続く4番目の宿場です。
宿場が担う役割は、荷物の運搬に要する人馬などの継ぎ立てや、旅人の休泊施設の提供、飛脚の業務などがありました。宿場として街並みを整えていたのは、約2kmの間で、この間は宿内と呼ばれました。宿内には、本陣を中心に旅籠や茶屋、商店が立ち並び、宿場町としてにぎわいを見せていました。
宿場が担う役割は、荷物の運搬に要する人馬などの継ぎ立てや、旅人の休泊施設の提供、飛脚の業務などがありました。宿場として街並みを整えていたのは、約2kmの間で、この間は宿内と呼ばれました。宿内には、本陣を中心に旅籠や茶屋、商店が立ち並び、宿場町としてにぎわいを見せていました。
保土ヶ谷宿には、金沢道や八王子道といった脇街道へ繋がる分岐点があり、この道標4基がその分岐点に建てられていました。この道標の中に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」と杉田梅林への道を示す俳句を詠んだものがあります。金沢道は杉田の梅林や金沢、鎌倉、江の島という名所、旧跡を通り、藤沢宿で再度、東海道と合流するルートとして人気があったそうです。
問屋場とは、宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。
保土ヶ谷宿といえば宿場そばの「桑名屋」さんです。ご主人の近藤さんが出迎えていただき、御宿場印をゲットしました。
保土ヶ谷御宿場印
桑名屋さんの下足箱には東海道の宿場の名前が描きこまれています。
2階に案内されると、保土ヶ谷宿の街並みジオラマが・・・保土ヶ谷宿って途中で90度曲がっているんですね。
ここには、大きな豪商や名主さんがいて、明治の横浜の開港場を支えていたハマっ子たちのルーツがあると近藤さんが教えてくれました、確かに保土ヶ谷の名士だった、岡野・平沼って地名にもなっているよね。
講義は続くよ!
お腹がすきました!王道のてんぷら2段せいろ
宿場をイメージした粋なメニュー「雪割りそば」は蕎麦にとろろ、納豆、いくらなどをそれぞれ乗せて色々な味の蕎麦を楽しんでもらえるメニューになっています。
桑名屋:https://hodogaya-ku.jp/area_list/facilities/3897
保土ヶ谷は東海道好きにはたまらない場所、旧道のポイントに説明看板が充実しています。
保土ヶ谷の一里塚は日本橋から8番目。多くの一里塚は街道の両側に対で造られていますが、なぜか保土ヶ谷は片方だけが明治まで残っていました。この一里塚も明治になり宿駅伝馬制度の廃止にともなって姿を消てしまった状態が続き、2007年に復元完成されました。場所の制約から「五間四方」に相当する大きさに復元することはできませんでしたが、松並木とともに少しでも往時を偲ぶことができるようになりました。
国道1号を走る正月の箱根駅伝。権太坂は駅伝ランナーにとって難所として知られ、テレビ中継でもおなじみです。駅伝のコースからはずれ、元町橋付近から県立光陵高校の前を通り境木中学校付近へと通じる坂道があります。ここが旧東海道の権太坂です。
今では舗装されたなだらかな坂ですが、当時は傾斜のきつい坂が、一番坂、二番坂と続いていたそうです。特に一番坂は折れ曲がった長い坂道で、元町方面から見上げると約40メートルあり、早朝に江戸を出発し歩き疲れた旅人にとっては厳しい上り坂だったようです。
坂の名前の由来は、旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えたという説と、藤田権左衛門という開発者の名前から「権左坂」と呼ばれていたものが転じたという説があります。
権太坂から少しだけ裏に入り、現在は近代的なマンションが建っているその脇に、小さな石仏が並ぶ一角があります。かつての東海道の難所であった権太坂で行き倒れた人々を埋葬した「投げ込み塚」の跡地で当時かなりの難所であったことがわかります合掌。
権太坂の山頂に到着。境木商店街で休憩。
菓子匠 栗山さんで、「おじぞうさんもなか」という大人気の和菓子を購入。「さかいぎ」という文字と、お地蔵様の姿をあしらった皮の中身は、あんの違いがあり、黄色い包みが備中産大納言の小倉あんで、緑色の包みが栗の入った白あん。どちらも、ぎゅうひの程よい食感が味わえます。金運、商売繫盛の境木地蔵尊の御利益があるようにと、願いが込められているそうです。
昔ながらの味で、大福もちの「ごんた餅」もお土産に最適です。
菓子匠 栗山:http://www.wagashi-kuriyama.co.jp/meika/
さあ権太坂を上りきると境木地蔵尊があります。鎌倉の海岸に流れ着いたお地蔵様が、江戸に運ばれる途中でこの場所が気に入り、動かなくなってしまったため、お堂を建てて安置したと伝えられています。
焼餅坂ッてかわいい名前ですね。
焼餅坂の名の由来は旅人が休憩する茶屋が軒を並べ焼餅を売っていたことによるらしいですが
この坂の風情が東海道らしいと感じました。
この近辺は旧道のたたずまいを残す江戸期にタイムスリップした場所です。ここまでくると戸塚までもうちょっとです。
横浜の戸塚区柏尾町には、日本で最初にハムを製造したレンガ倉庫”が残っています。
この倉庫は、元舞橋から入った旧東海道に面した場所にあります。
東海道五十三次の5番目の戸塚宿の入り口に位置し、相模国鎌倉郡に属したことから、“鎌倉ハム”として全国的に名前が知られました。当初は異人館の主人カーティスが製造したハムを主に横浜居留地の外国人向けに販売していたそうです。
戸塚宿の入り口である、江戸方見附まで来ました。ここでご宿場印ゲット
戸塚区内の旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。その中で戸塚宿は、江戸方見附跡と上方見附跡の2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされており、今も戸塚区の中心地として賑わっています。御宿場印を戸塚駅前の純喫茶モネで取り扱っている片山大蔵さんが、わざわざ江戸方見附まで届けてくれました。今日は定休日でお店がお休みだったため、特別な計らいです。
彼は東海道の宿場すべてを踏破したツワモノです。
喫茶店モネ:https://zikabaisenmone.wixsite.com/mone
戸塚御宿場印
戸塚宿の成立は、慶長9(1604)年で、隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6(1601)年に遅れること3年でした。戸塚宿は、起点の日本橋から数えて5番目の宿場町で、日本橋からは10里半(約42km)の距離にあり、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適でした。また、鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。
案内板を見ながら出発
冨塚八幡までやってきました。
冨塚八幡宮は、社殿後方の山上には富属彦命の鎮堂を奉った富塚が、境内には松尾芭蕉の句碑があります。
戸塚の地名は、この「富塚八幡宮」の「富塚」からきていると言われており、戸塚の氏神様として市民の信仰を集めています。おごそかな雰囲気が漂い、歴史を肌で感じられます。
冨塚八幡宮:http://www.izumi-loc.com/kamakura/tomituka/index.html
旅のゴールは戸塚宿の一番端の上方見附です。御宿場帳帳に三つの御宿場印をいただきました。
今日の旅はここで終わります。さて次回はどこに行こうかな?
※施設やお店の営業時間などは変更になっている場合があります。
事前にお調べになってからお出かけください。
協力:(公財)横浜観光コンベンション・ビューロー
横浜信用金庫
レポート:小嶋 寛
写真:清水和城