冠ケ岳の北中腹に広がる。約3000年前に神山[かみやま]の斜面が爆発したときの爆裂火口跡で、今も大地から噴煙が立ち上る。明治になるまでは大地獄といわれ、人々に恐れられていた。現在では一年を通して多くの観光客で賑わう観光地となっている。南西の岩場には閻魔台[えんまだい]、北東にはここで涌いた水を温め、強羅や仙石方面へ湯を送っている地獄沢という噴気帯が点在している。どちらも立ち入り禁止だが、閻魔台周辺へは大涌谷自然研究路が通じている。箱根ロープウェイの車窓からは噴煙をあげる地獄沢の光景を見ることができる。
平安時代後期創立の古社。鎌倉・湘南地帯を開拓、鎌倉権之守として「鎌倉武士団」を率いた領主・鎌倉権五郎景政公を祀る。境内にはイチョウの大木や樹齢400年のタブの巨木が生い茂り、静寂そのもの。景政公が軽々と持ち上げたという105kgもある手玉石も残る。毎年9月18日の例祭には、特異な面をつけた十人衆が町内を練り歩く面掛[めんかけ]行列が行われる。また、神社の前を江ノ電が走り、フォトジェニックスポットとしても人気。江ノ電が表紙の御朱印帳もある。
臨済宗円覚寺派の禅寺で、鎌倉五山の第四位。弘安4年(1281)、北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために妻とその子師時が建立したという。鎌倉時代には七堂伽藍を備え、塔頭も11院ほどあった。現在は関東大震災後に再建された総門や仏殿などが立つ。石段を登って鐘楼を兼ねた山門を入ると、右手に本尊の木造三世仏坐像を安置する仏殿の曇華殿がある。境内には竹林ややぐらなどを巡る散策路が設けられ、禅寺にふさわしい閑寂なたたずまいをみせている。梅や桜、萩など花の寺としても人気。参道入口には鎌倉十井のひとつ、甘露ノ井がある。
極楽寺切通しの途中、石段を登った小高い丘の上にある真言密教の寺。弘法大師が修行した霊場跡に、承久元年(1219)北条泰時[やすとき]が創建したと伝えられる。本尊は不動明王(縁結び不動)。また、参道からは眼下に由比ケ浜の眺望が広がる。
比企谷[ひきがやつ]の山腹にある日蓮宗の寺。一帯は比企能員[ひきよしかず]一族が屋敷を構えていたところ。北条時政により建仁3年(1203)、2代将軍頼家[よりいえ]と能員の娘若狭局[わかさのつぼね]との間にできた子、一幡[いちまん]と共に比企一族は滅ぼされてしまったが、京都にいて難を逃れた能員の末子能本[よしもと]が一族を弔うため文応元年(1260)に建立。広大な境内には本堂や祖師堂、苔むした比企一族の墓、幼い命を絶たれた一幡の袖塚などがある。梅やカイドウなど四季を通して花が多い。
三浦半島の東端、風光明媚な観音崎の地に建てられた美術館。年間6回の多彩な企画展の他、日本の近代美術約5000点の中から選んだ所蔵品展と、別館の谷内六郎館ではノスタルジックな雰囲気に癒される谷内六郎作品を、年間4回展示替えしながら紹介している。周辺の自然豊かな環境と、ユニークな建築、絶景美術館にも選ばれた抜群の眺望が魅力。地元の食材を使ったイタリアンが楽しめるレストラン「アクアマーレ」、オリジナルグッズを扱うミュージアムショップなど併設の施設も人気がある。
記念艦三笠は、明治35年(1902)イギリスで建造された。排水量1万5140トン、全長122m、幅23m。明治37年(1904)に始まった日露戦争で、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊の旗艦として活躍した。甲板や船室が公開され、甲板には40口径30cm主砲、艦内には日露戦争に関する貴重な資料が数多く展示されている。最新の「VR・日本海海戦」や「日本海海戦操艦シミュレータ」も無料公開中。
平潟湾の入口に浮かぶ島が野島で、その東半分が野島公園。海抜57mの野島山を中心に、キャンプ場(要予約)や野球場(要予約)などがある。金沢八景の一つ、「野島の夕照」は野島の漁村の夕暮の風景を描いたもの。晴れた日には、山頂の展望台から富士山や房総半島も一望できる。
西鎌倉で人気の「鎌倉倶楽部 茶寮」の2店舗目となる「小町店」。日本各地の単一品種のお茶と、それに合う菓子が楽しめるスタイルはそのままに、季節のパフェなど「小町店」だけのオリジナルメニューが味わえる。お茶のアドバイザーとしても知られる、店主・齊藤亜紀氏の「お茶」へのこだわりが詰まった空間となっている。店内では、茶葉をはじめ茶器や煎茶を使ったオリジナルアクセサリーなども販売。
鎌倉・浄明寺エリアにある糀[こうじ]の専門店。「糀のある生活」をコンセプトに、日本の伝統食品である「糀」の魅力を、衣・食・住の3つのテーマで提案している。店内には、糀を使ったスイーツ&ドリンクが楽しめるカフェのほか、アパレルショップや、糀を使って味噌や甘糀作りが体験できるワークショップスペースもある。
国内外の良書約1万2000冊を集めた、箱根強羅温泉のブックオーベルジュ。本との出会いをテーマに、館内にある本は自由に読め、購入することもできる。客室は温泉露天風呂付きで、全18室。
東急電鉄田園都市線青葉台駅すぐ近く、東急スクエア本館5階にあるコンサートホール。席数500席の本格的な音響特性を備えたシューボックス型のホールで、リサイタルや室内楽など、クラシック音楽に最適なホールとして親しまれている。コンサートホール以外にリハーサル室や練習室、チケットセンターなども併設。
閑静な住宅街にあり緑に溢れた公園。地域の人々が少年野球やゲートボールなどの球技ができる大きさの多目的広場(予約可)や、ジャングルジムや砂場などの遊具もあり、幅広い年代で楽しめる。樹木が多い園内は散策に最適。春には桜、秋には紅葉も見ることができる。なお、公園を利用する際は、他の利用者や近隣の居住者に十分な配慮を。
5月下旬〜6月上旬にかけてゲンジボタルが飛び交う幻想的な様子を見ることができる。
公園名となった菊名池は、もともと周囲1kmほどある大きなものだったが、水道道の開通により二分され少し規模が小さめになった。2万8000平方mの園内には、木々に囲まれた池の周囲に散策路が巡らされ、訪れる野鳥を見ながらのんびりと散歩することができる。夏休みシーズンのみオープンする屋外プールも併設。変形流動式プールや子ども用のプールもあるため、ファミリーで気軽に楽しめる。
築50年以上の元アトリエをリノベーションしたレストラン。店内のテーブルはもちろん、豊かな緑に彩られたテラス席は居心地抜群だ。コンセプトは「LOCAL&CRAFT」つまり「手作りと地域密着」。メニューは、地元鎌倉で110年の歴史をもつ「鎌倉ハム富岡商会」とコラボレーションして手作りのロースハムを使った料理を中心に、ピザやパンケーキなど湘南の旬の素材を使った北カリフォルニアスタイル。「鎌倉ビール」と協力したオリジナルクラフトビールも味わえる。
土肥実平[どいさねひら]の菩提寺で、一族の墓や本堂、七騎堂、五輪塔などが立つ。実平は石橋山の合戦で平家に敗れた源頼朝を大庭景親の軍勢から守り、源氏再興に尽力した「頼朝七騎」の一人。境内には実平自らが植えたという、樹齢約800年のビャクシンの大木(天然記念物)がある。また、寺からは、土肥実平の居城があった城山へ行くことができる。山頂には土肥城址があり、真鶴半島や相模湾などを一望できる。
真鶴半島の付け根、真鶴漁港近くにある食事処。アジのたたきを秘伝のタレ、刻み海苔と一緒にアツアツご飯に乗せ、煎茶をかけて食べるまご茶漬けが名物。小鉢が付いて1980円。あじのぎょうざ550円(まご茶漬けと一緒に頼むと100円引き)などもある。
オリジナルのミュージアムグッズやデザイングッズなどを多数取り揃えているミュージアムショップ。他にも箱根の土産も取り揃えており、幅広いラインナップで来館者のニーズに応えている。
餃子の専門店。一枚一枚、手で伸ばした薄皮の中には、ニラや白菜など野菜を中心とした具材がたっぷり。かぶりつくとおいしい汁がしたたり落ちる。カレー餃子638円、岩のり餃子748円、エビ餃子715円など、ユニークなオリジナルを含め14種類の餃子があるので、食べ比べてみるとおもしろい。
2フロア分を贅沢に使った天井高と芦ノ湖に面した大きな窓が特徴的な解放感あふれるメインダイニング。内側壁のバルコニーや女性の顔を模したシャンデリアなど、建築家のこだわりが散りばめられた空間でリゾートの特色を生かしたコース料理やアラカルトを用意している。
塔ノ峰の中腹にある古刹で、別名をあじさい寺という。室町時代に大雄山最乗寺[だいゆうざんさいじょうじ]の僧安叟[あんそう]が曹洞宗の寺として創建。後に廃寺となり、慶長9(1604)、弾誓[たんせい]上人によって浄土宗の寺として再建された。山に沿って延びる参道は樹木が鬱蒼と茂り、6月下旬〜7月中旬にかけて3000株のアジサイが彩る散策道となる。本堂には阿弥陀三尊像や皇女和宮ゆかりの像が安置されており、本堂からさらに15分歩いたところにある弾誓上人が修行したという祠[ほこら]・奥の院も見学できる。
金太郎のモデルになった平安時代後期の武士、源頼光[みなもとのよりみつ]に仕え四天王の1人に数えられた坂田公時[さかたのきんとき]を祭っている。金時祭が行われる5月ごろはツツジやサツキが見られる。境内からは金時山への登山道があり、山頂までは約3km、所要1時間20分。途中には公時神社奥の院や、金太郎が使ったというマサカリを奉納した祠[ほこら]、山頂付近には金太郎の宿り石がある。登りはきついが山頂から富士山、箱根連山、芦ノ湖などを一望できる。
周囲500mの小さな池で、背後に駒ケ岳を控え樹木に囲まれて深い緑色の水を湛える。湯治に訪れていた男が娘に身を変えた大蛇との約束を破り、池の中に引きずり込まれ命を落としたという伝説が残る。この池から先は鎌倉時代の箱根越えの難所で、極楽浄土と地獄の分かれ道といわれていたという。このため、周辺には旅人が道中の無事を祈ったという石仏が多く残されている。