被ばく隠し生きた過去 港南区在住 佐藤美津紀さん

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美津紀さん(中央)とお話し会を主催する姉妹

1945年8月9日午前11時2分、当時16歳の佐藤美津紀さん(港南区在住/96)は長崎の爆心地から3Kmの場所で被ばくした。「勇気がなくて積極的に話してこなかったことを後悔している」と今夏、娘2人が主催するお話し会への登壇を決めた。

佐藤さんは原爆が投下された時、長崎市大浦町の長崎貯金支局に勤務していた。「爆発音と同時に強い光と衝撃。シャンデリアがバーンと落ちてきて、とっさに机にもぐった」と振り返る。

その後の悲惨な状況の数々――背負っていた赤子が焼けただれて亡くなっていると知った若い母親の声にならない叫び。学徒動員として三菱重工業の兵器製作所に勤務していた13歳の弟の背中に刺さっていた鉄の破片。建物の鉄骨がむき出しになるほど燃え盛る街を「不謹慎にも美しい」と思ったこと。今も脳裏に焼き付いている。

「被ばく者だと言うと結婚できなくなる」と言われてきた。上京、結婚してもなお、多くを語ることはなかった。だが、被ばく者としての葛藤は常に胸中に。長女の出産までに3回の流産を経験し、「お医者様に独り言みたいに『影響もあるのかな』と言われたことも」と、ぽつりと話す。

昨年、佐藤さんに心境の変化が。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞したことを機に、会員である佐藤さんにも取材の依頼が増えた。

また、当時1歳10カ月だった被団協の事務局次長・和田征子さんの精力的な発信や、若者が継承しようとする姿に「若い人も一生懸命伝えようとしてくれている」と背中を押された。昨年5月には、磯子区の杉田劇場で行われたノーベル平和賞の受賞を記念した講演で自身の経験を語った。

母娘で、今だからこそ

そんな母を見て、娘の佐藤ひろみさん(57)と梁瀨まなみさん(55)は、「母が思い残すことがないように」と、8月2日(土)にみなとみらいで「96歳の母が話す長崎被曝体験のはなし」の開催を決めた。会場はすでに満席になっており、関心の高さがうかがえる。

娘に体験談を話したこともあったが、「反応がなく虚しく感じた」と話す佐藤さん。娘2人は「被ばく二世として他の子よりも意識はしていたと思う」としながらも、ひろみさんは「幼少期に聞いた話に怖いイメージがあり、積極的には聞こうとしてこなかった」と本音を漏らす。まなみさんも「母には聞きたくないと思っているように見えたのかも」と、母娘間のすれ違いを振り返る。

「母も私たちも今だからこそ理解し合って共有できることがある」。お話し会の開催は体験を伝えていくことと同時に、「母が思っている大事なことを受け継ぐ気持ちがあると分かってもらいたい」という思いも込められている。

佐藤さんは「やっと理解してくれたと思った」と話す。2人は「母が喋れる間と、その後にできることは違うと思うが、活動は続けていきたい」と口にする。

「核のない戦争のない、平和な世界が1日でも早く来ることを願っている」と語る佐藤さん。その強いメッセージを娘とともに未来へつないでいく。

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