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横浜開港の歴史から山下町旧居留地巡り

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横浜を初めて訪れた方も、もちろんハマっ子も!横浜の歴史に触れることにより、もっと横浜が好きになる「横浜観光親善大使と巡る歴史旅 ヨコハマ再発見」!
第4回目は、「横浜開港の歴史から山下町旧居留地巡り」をお届けします。

 

 

旅のナビゲーターはもちろん第18代横浜観光親善大使の稲垣薫(いながきかおる)さんと首藤櫻(しゅどうさくら)さん。今日の衣装は明治の開港の頃を意識した「ハイカラさん姿」和装の袴姿なんですね。とっても似合っています。

 

 

今回は、横浜駅東口のベイクウォーターの「シーバス乗り場」から。もちろん今回の旅も「my routeアプリ」でルートを検索してスタート!

 

 

さぁ乗船です。

 

 

このお船、横浜港観光船『マリーンルージュ』、海上交通船『SEA BASS シーバス』などを運航しているポートサービスの新たな『SEA BASS シーバス』の新造船です。ネーミングコンセプトは「~ゼロからのスタート~」!令和元年9月、惜しくも『シーバス3号』が台風15号の被害により沈没。『シーバス3号』の意思を継承し、『NEWシーバス』が”令=0=ゼロ”から生まれ変わる、『SEA BASS ZERO』として横浜港の新しい顔になっています。
今年8月より就航開始し、通常定期航路の他にもお客様のニーズに応え人気の『京浜工場夜景とみなとみらいクルーズ』や新航路による《特別便》も運航計画中です。夕刻からの海面に照らし出されるイルミネーションも幻想的です。

 

 

出航するとすぐにみなとみらいの全貌が・・・

 

 

陸からの景色とはちょっと違いますね。夕刻からの海面に照らし出されるイルミネーションも幻想的だそうです。

 

 

約15分程度の船旅は、みなとみらいのぷかり桟橋経由で横浜赤レンガ倉庫の「ピア赤レンガ」に到着。山下公園に向かう『SEA BASS ZERO』に手を振ってお見送りです。

 

 

さてさて、赤レンガ倉庫から徒歩で万国橋までやってきました。この万国橋、夜景の名所で空気の澄んだ冬場には、フォトジェニックな横浜の観光名所として有名です。
現在の橋は二代目で、1940年に架けられたコンクリートアーチ橋。みなとみらいができる前は、関内と新港埠頭を結ぶ唯一の連絡橋でした。この美しいアーチ橋は、1991年に「かながわの橋100選」に認定されています。

 

 

現在の万国橋からみなとみらいを望む

 

 

横浜開港資料館所蔵「横濱萬國橋」

最初の万国橋は、1904年に完成。橋はボウストリングトラスで、橋中央に装飾を凝らした照明が掲げられているなどユニークなデザインの橋であったそうです。

 

 

万国橋の運河沿いのシーサイドデッキに到着。よく見るとトランプの1から10までがレンガ模様で刻まれています。あれジャック⑪、クイーン⑫、キング⑬・・・は??

 

 

少し探すと遠くに横浜税関(クイーン⑫)が望めました。ちょっと昔は、開港記念会館(ジャック⑪)や神奈川県庁(キング⑬)見えたそうです。知る人ぞ知る運河沿いの「横浜三塔スポット」ですね。

 

 

さて万国橋から馬車道商店街への途中に「牛鍋処 荒井屋 万國橋店」があります。
上の写真は「開化牛鍋膳」万國橋店限定メニューの昼の部3,300円(税込)11:00~14:30(LO14:00 )
もちろん「牛鍋」は文明開化の頃より受け継ぐ横浜発祥の味。店長の間宮さんは、「本店の食のこだわり、おもてなしの心をもっと多くの方にお伝えしたいという願いを込めて2007年万國橋にオープンしました。従業員一同ご来店をお待ちしています」とのコメントを寄せてくれました。

 

 

名代「牛鍋」4,180円より(税込、サービス料別)
今回の取材で、行くことができませんでしたが、近いうちに行きたいですね。
写真提供:牛鍋処 荒井屋 万國橋店

 

 

さて、本日のランチの目的地は横浜開港資料館のミュージアムカフェ「オー・ジャルダン・ドゥ・ペリー (Au jardin de Perry)」。フランス語で「ぺリーのお庭で」という意味だそうです。周囲の景観と溶け込んでいる素敵なカフェです。

 

 

入口は開港広場に隣接する「かわいいお家」。

 

 

では、お待ちかねのランチ頂きましょう!薫さんがご飯プレート、櫻さんはクロックムッシュですね。

 

 

薫さん・櫻さんご感想はいかがですか?
薫さん「具もゴロっと沢山入っていて少し甘めでまろやかなホワイトシチューは食べやすかったです。」
櫻さん「クロックムッシュはサクッとしたパンの中にトロッとしたチーズとハムが入っており、チーズ好きにはたまらない一品で一口食べるだけで幸せな気持ちになりました。」
と食レポをしてもらいました。

 

 

お店を出て、横浜開港資料館のお庭を抜けるとそこは日本大通りです。

 

 

冬の日本大通りは素敵ですね。この通りは、イギリス人技師ブラントンの設計で、日本で初めての西洋街路樹だそうです。なんと火事をきっかけに作られた防火帯の役割もある通りで、日本人町と外国人居留地の境でもありました。横浜の絵になる風景です。

 

 

二人で開港の頃の居留地の痕跡ってあるのかを探してみると・・・ありました!門柱の「GR」ってなんでしょう?
門柱の「GR」は、ラテン語の「Georgius Rex」で、英訳すると「King George(ジョージ王)」だそうです。英国総領事館(現横浜開港資料館)が建てられたときは、ジョージ5世の時代です。こんなところにイギリス王の印があるのは実にびっくりですが、ちょっとタイムスリップした感じでした。尚、山手のイギリス館(総領事公邸)の場合は、ジョージ6世の時代に建てられたので、建物には「GRⅥ」のレリーフがあると横浜開港資料館の副館長の青木さんに教えていただきました。

 

 

さて、横浜開港広場に戻ってきました。大さん橋と山下公園の通りが交差する角に位置する「開港広場」は、日米和親条約締結の地として有名な場所です。周辺には、桜の木を有する日本人のための最古のプロテスタント教会である横浜海岸教会や、横浜開港資料館などの歴史的建造物や記念碑もあり、横浜の開港の歴史を感じられる広場です。

 

 

この広場には、ちょっとのぞくと1880年代に築造されたレンガ造りのマンホールと下水管が保存されています。この広場の付近では下水道改造工事が実施され、卵形レンガ管と陶管の下水道が整備されました。その下水幹線7本とマンホール37カ所はレンガ造りで、それらは日本人が設計した日本で最初の近代下水道です。

 

 

なんと開港広場には大砲もありました!1959年、建物跡地工事中に発見された3門の大砲のうちの1つで、屋外展示されていましたが、2003年に横浜市に寄贈。開港広場に移されました。1つは神奈川県立歴史博物館の入口前に、もう1つは山下町90番地(屋外)に保存展示されています。この大砲は、旧居領地90番地の大砲でしたが関東大震災で埋没したと言われています。明治期に製造された鋳鉄製の11ポンドカノン砲でオランダ東インド会社の船の備砲でした。

 

 

横浜開港記念会館の正面玄関にやってきました。横浜開港資料館の中庭にあるタブノキは、通称「たまくす」と呼ばれています。1859年、横浜は開港場となり、外国人居留地と日本人市街とをわける位置にある「たまくす」は、浮世絵にも登場。しかし、関内地区に大きな被害をもたらした1866年の大火によって、「たまくす」は樹形が変わるほど焼失してしまいました。しかし、被害をうけた「たまくす」は、イギリス領事館の庭で新たな芽をふくことになりました。1923年の関東大震災で、「たまくす」はふたたび大きな被害をうけますが、その生命は絶えることはありませんでした。イギリス領事館が再建されるに先立ち、1930年、「たまくす」は領事館の敷地内に約10メートル、現在ある位置に移植されました。二度の大きな被害をくぐり抜けた「たまくす」は、1981年日米和親条約締結の地に開館した横浜開港資料館を象徴する有形文化財として、そして近代横浜の生き証人として、現在も横浜の歴史を語り継いでいます。

 

 

横浜開港資料館所蔵 「ぺリー提督・横浜上陸の図」」右のやしろの樹木がたますくの木

 

 

上の写真は横浜開港記念会館の中庭にある獅子頭共用栓とブラフ溝です。
横浜に近代水道ができた当時は、水道を各家庭に引く工事費用や水道料金が高かったため、殆どの家では道路の角に作られた共同蛇口から水をくんで使っていました。この共同蛇口がライオンの頭の形をしていたことから獅子頭共用栓と呼んでいたそうです。この共用栓はイギリスから600基輸入され、横浜市内の道路に付けられていました。横には水を受けるための排水口もあり、これがブラフ溝と呼ばれているようです。現在は敷石を踏むと水が出る等になっています。二人とも子供のように喜んでいます!

 

 

今回は、特別に副館長の青木さんに館内を案内していただきました。この地図は開港時の模型です。

 

 

ペリー来航の頃の横浜の様子を聞いています。

 

 

青木さんは横浜の近代建築については第一人者。開港の頃の横浜の様子を分かりやすく教えていただきました。

 

 

当時の外国人居留地の様子も丁寧に解説。青木副館長ありがとうございました。

 

 

次は開港広場前の建物、シルクセンターの2階にあるシルク博物館にやってきました!
館内は1階と2階の2フロア構成。1階では、飼育している「かいこ」がエサを食べたり、時期によっては「まゆ」をつくっているところを観察できます。「まゆ」から糸を取りだす「糸くり」体験や、糸から布を織る「はた織り」体験もできるそうです。オリジナルキャラクター「まゆるん」の案内に従いながら、クイズに挑戦したり、「かいこ」からシルク製品ができるまでを楽しく学べるようになっています。
そのほか、1、2階を通して、横浜とシルクに関する歴史や、キモノなど和装を中心とした絹製品、古代から現代までの復元時代衣装などの利用を展示しており、子どもからおとなまで幅広く楽しめます。

 

 

これは・・・博物館で飼育している「かいこ」。櫻さんは虫が苦手のようです・・・

 

 

高橋副館長に特別に案内してもらいました。説明ボードは子供でも分かりやすい内容になっていてシルクについて楽しく学べます。

 

 

シルクと横浜のかかわりは奥が深く、日本の近代化に大いに貢献したことも学びました。

 

 

明治のころのパッケージデザインはおしゃれ!輸出用のために「NIPPON」が誇張されていて、今でも充分に通用するデザインです。

 

 

着物の歴史についても展示されていました。

 

 

ミュージアムショップでは横浜を代表する産業でもある「横浜スカーフ」も販売。おしゃれでデザイン性の高いスカーフが販売されていました。素敵なデザインの商品が多く、おすすめです!

 

 

シルクセンターの1階には、英一番館(ジャーディン・マセソン商会)跡の石碑があります。
1859年、横浜が開港。イギリス系企業のジャーディン・マセソン商会上海支店にいたウィリアム・ケズウィックは、開港と同時に帆船で横浜に来航し、ジャーディン・マセソン商会横浜支店を設立して貿易を開始。日本に進出した外資系企業の第1号といわれています。その場所が、外国人居留地の一番地で、「英一番館」の通称で知られていました。

 

 

さて、ここからは人力車で移動!「ハマの人力車」として有名な、横濱おもてなし家(や)の鈴木精治さんが車夫として案内してくれます。
二人ともはじめての人力車です。鈴木さんは「はまっぷ」という観光マップを制作したり、横浜中華街の公認コンシェルジュでもあります。「横浜の観光案内はお任せください!」と鈴木さん。

 

 

出発前に神奈川県庁をバックに、ハイポーズ、衣装と人力車が似合っていますね!

 

 

薫さん、櫻さん人力車の乗り心地は・・・

 

 

外国人居留地「本町通り52番付近(絵葉書)横浜開港資料館所蔵

人力車は、水町通りに入ってきました。水町通りは、山下公園通りの一本裏の通りです。開港時、ここは外国人居留地。ここで水を売っていたのか、水を外国船に運ぶパイプが通っていたのか・・・諸説あるのですが、居留地の外国人は、ここを「Water Street」と呼んでいました。それが日本語になると、水町通りになったわけですが「水町」という町名はないので通称です。

 

 

横浜トヨペットのウエインズ山下公園店前を通り過ぎたところで二人に人力車の感想を聞いてみました。
櫻さん「今回初めて乗ったのですが、思っていたよりも高さがあって驚きました!アトラクションに乗っているかのような楽しい気分を味わえました。」
薫さん「「人力車から眺める景色はいつもより視線が少し高く新鮮。進むスピードと乗り心地もとても良く素敵な時間を過ごせました。」
との感想です。この居領地周辺に商館がたくさんあったころに思いを寄せて、しばし横濱おもてなし家(や)さんの人力車で「横浜の風」を感じてドライブです。

 

 

さて周辺明治のころの外国人居留地を訪ねて周辺をご紹介しましょう。
外国人居留地とは、1859年の開港から1899年に廃止されるまで、約40年間にわたって存続した制度で、山下地区一帯は波止場を中心に整然と街路が区画され外国商館の建ち並ぶ異国情緒あふれる街であったそうです。

 

 

横浜開港資料館所蔵 「山手からの山下居留地遠望1871-79」

水町通りから1本中華街方向の道に入ったところのKAAT(神奈川芸術劇場)の側面には「山下居留地遺跡」に関する野外展示があります。横浜山下町地区市街地再開発事業における神奈川芸術劇場、NHK横浜放送局新放送会館建築工事に伴い発掘調査をしたところ、この場所から横浜外国人居留地に遺構が発見されたそうです。

 

 

旧横浜居留地48番の遺構です。明治期、紅茶やダイナマイトなどを扱っていた商人J.P.モリソンの事務所兼住宅として建てられた建物の遺構で関東大震災で崩壊した家の1階の外壁が一部残されています。

 

 

山下公園通りにある。 旧英国7番館は、1922年に英国の貿易会社バターフィールド&スワイヤ商会の横浜支店として建築されました。関東大震災で全焼しましたが、外装は残ったため再建されて、唯一の震災前に建てられた外国商館の遺構です。横浜市認定歴史的建造物。

 

 

中華街の山下公園側に一本中に入ったところの居留地91番地は、1868年にイタリアから来日したイシドーロ・デローロが、1870年に創業した蚕種・生糸輸出を扱う「デローロ商会」の商館があり、1965年まで存続していました。(ただし空白期間もあり)この写真の塀は商館の街路塀の可能性があります。2001年にマンション建設時に土中から見つかりました。

 

 

開港広場にあった居留地90番の大砲の一つです。

 

 

旧居留地消防隊地下貯水槽
本町通りから横浜都市発展記念館の茶色い建物に沿って曲がり、駐車場の横を歩いていくと、この遺構があります。1893年に建てられたと言われている居留地消防隊の地下貯水槽で中消防署跡地の地下で1972年まで使用されていたそうです。

 

 

そのほかにも都市発展記念館の中庭には当時の土木遺構が展示されています。

 

 

この遺構は、横浜市開港記念会館の道路を挟んだところにある、開通合名会社の煉瓦遺構です。門のように見えますが、建物の正面部分の遺構です。明治時代に建てられたと推定される社屋の一部で煉瓦壁を保存改修し、2015年に公開しました。 関東大震災により壊れた煉瓦造の建物の一部が店舗として使われた後、建物の解体時に発見されたこの煉瓦壁は、所有者の意向により残されることとなりました。 こういうのが残っているのも横浜のまちの面白さですね。

 

 

さて最後は横浜人形の家へやってきました!横浜人形の家は、1978年に人形コレクションが、横浜市に寄贈されたことをきっかけに、翌年、産業貿易センター内「横浜国際会議場分室」(当時)に現施設の前身をオープン。所蔵人形数が増加したことに伴い、これら人形コレクションの散逸を防ぎ、保存展示の充実と、関内・山下地区の活性化を目的として 1986年に現在の場所に移りました。 横浜人形の家は、人形専門の展示施設としては、100か国以上、1万点以上の人形を収蔵する国内唯一の施設で、人形及びその資料類を通じ世界の民俗、風習、歴史、文化等に触れる機会を利用者に提供できる施設です。

 

 

真剣に人形の歴史に触れる櫻さんと薫さん。

 

 

横浜の開港に合わせて西洋のお人形が横浜港から入ってきたのですね。

 

 

人形による世界との友好関係は、港町ならではのもので改めて横浜の歴史が港と共にあることを再認識しました。

 

 

ビスク・ドールは、19世紀にヨーロッパのブルジョア階級の貴婦人・令嬢たちの間で流行した人形で、ビスク・ドールの「ビスク」とは、お菓子のビスケットと同じく、フランス語の「二度焼き=ビスキュイ(biscuit)」が語源だそうです。
横浜人形の家にはたくさんの展示がありました。山下町にお越しの際は、ぜひ寄っていただきたい施設ですね。

今日はここで終了!「横浜の歴史から山下町旧居留地巡り」いかがでしたか?この「横浜観光親善大使と巡る歴史旅」次回はどんな出会いがあるか楽しみです。

※尚新型コロナウイルスの感染防止のため写真撮影の時だけ、横浜観光親善大使はマスクをはずしています。取材スタッフは随時感染防止対策を徹底しております。

 

<取材協力先一覧>
※お店の営業時間などは変更になっている場合があります。
事前にお調べになってからお出かけください。


<協力>
公益財団法人横浜観光コンベンション・ビューロー

<衣装協力>


レポート:小嶋 寛
写真:清水和成

 

ヨコハマ再発見
山下公園・横浜中華街
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