2023年は関東大震災(以下大震災)から100年となります。この大震災で震源地から近かった横浜は、大きな被害にあいました。開港以来の外国のようなまちなみは、揺れと火災で全滅したといっても言い過ぎではありません。。
しかしながら、ヨコハマの復興は目を見張るものがありました。この復興により、横浜はあたらしく生まれ変わり、山下公園をはじめ現代の基礎となした近代化のまちづくりのスタート起点となりました。そして街の整備が落ち着いたころ、山下公園を会場に1935(昭和10)年復興博覧会が開催され、新たなるスタートを切りました。今回は、まちなみの100年を対比しながら、不死鳥の横浜を再発見していきます。案内役は、すっかりガイド役が板についてきた、現役高校生の陣あいりです。皆さんと一緒に、震災100年を巡って、学んでいきましょう。
まずは、山下公園でmy routeをセットして出発!今日は勉強していきます!
公園内で、地層ボーリング調査が行われた際に、大震災で発生したがれきの一部が発見されました。この調査は10年前の「震災90年」を迎える節目に、横浜みなと博物館が実施。掘削作業の結果、深さ2〜3mほどの地層から陶磁器のかけらやれんがや、炭化した木材の一部などが次々と出土しました。
山下公園は、大震災の「がれき」の投棄場所だったのです。その「がれき」を利用して埋め立てて、1930年、山下公園は当時としては珍しい、臨海公園として開園しました。
氷川丸のところをのぞくとミニミニ砂浜が!横浜では、ここ山下公園と金沢区の野島にしか砂浜がないと言われています。大震災のがれきで、公園になる前は狭いながらも砂浜がシーサイド沿いに広がっていました。
資料提供:横浜都市発展記念館「横浜復興博覧会ポスター」1935年頃
この博覧会は、大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、1935年山下公園約10万平方メートルを会場に開催。
できたばかりの山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館がつくられて、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容だったと言われています。
資料提供:横浜都市発展記念館「横浜復興博覧会鳥瞰図」1935年
特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ、海には本物のくじらが泳いでいました。
資料提供:横浜都市発展記念館「ニューグランドより横浜港を望む」戦前期1933年~45年発行。
この絵葉書は、ニューグランドホテルからの山下公園を望んだもので、博覧会終了後のものだと推測します。まるで外国のまちのような風景ですよね。
山手に通ずる谷戸坂の上り口付近にある「谷戸坂石碑」です。石板には「谷戸坂大震災追悼碑」と刻まれています。かつてこの坂には商店街があたそうですが、大震災の揺れと火災でがれきになってしまいました。横浜の臨海部も大地震とともに火災が発生。多くの方が火災で犠牲になりました。
合掌
中区長者町9丁目には写真のような、大井戸があります。この井戸は震災時、防災の役割を担ったと説明版に記載されています。
山手の大震災の状況はどうなったのでしょうか?
山手の元町公園内にあり元町公園エリスマン邸の並び奥にある「山手80番館遺跡」にやってきました。大震災前に建てられた横浜に唯一現存する外国人住宅の遺構です。土台のみの廃墟跡ですが、見学用デッキ「ブラフ80メモリアルテラス」が整備されています。
現地の説明版には、(一部省略)
『この赤レンガの構造物は、関東大震災前の異人館遺跡で、震災当時はマクガワン夫妻の住居となっていたところです。この一帯は、かつての外国人居留地の中心地で、多くの外国人住宅のほか、学校・病院・劇場・教会などの西洋建築がたちならんで「異人館のまち」をつくっていましたが、今日なおその面影を残しています。
本遣跡は、煉瓦壁体が鉄棒によって補強されており、耐震上の配慮がなされていましたが、床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみられ、関東大地震による被害状況を物語っています。現在、地下室部分を残すだけですが、浄化槽をも備え、古き良き横浜の居留外国人の華やかな暮らしぶりをうかがいしることができます。昭和60年3月 横浜市緑政局 横浜開港資料館』と記載されていました。
資料提供:横浜都市発展記念館「横浜山手通り」(震災前)
山手の西洋館の多くは、明治の初頭から多くの洋館が立ち並び、週末ともなれば、華やかな笑い声や音楽が洋館から溢れていたと言われています。しかしこの大震災でほとんどが崩壊。ここに住んでいた外国人は、軽井沢や神戸に移り住んだり、祖国に帰ったりとばらばらになりました。
資料提供:横浜市史資料室「山手外国人住宅」の大震災の模様
山手のまちの崩壊の様子は、震災後この街を訪れた大正14年発表の芥川龍之介の短編「ピアノ」に描かれています。そのあらすじは・・
「ある雨の降る秋の日、面倒な用事をしに遠くへ出かけた。すると震災後に崩れたままになっていた家が見えた。野ざらしの中でピアノが置いてあった。私が通りかかると突然ピアノが鳴った。曲ではなく一音だけ。また別の日、同じ用件のためにその崩れた家を通った。今度は通り過ぎずピアノの傍に来た。ぼろぼろのピアノ。鍵盤を押しても鳴りそうには見えない。「第一これでも鳴るのかしら」と呟くと、また一音鳴った。しかし私は驚かなかった。微笑みまで浮かべた。傍には落ち栗が転がっていた。見れば栗の木がピアノに覆いかぶさっていた。」ほっこりする話であるが、荒れ果てる山手の通りの様子が目見浮かびます。
ここは、本町通り横浜市開港記念会館前にある「開通合資会社 煉瓦遺構」。
この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられます。建物は、大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が復興建築の内部に奇跡的に残されていました。2014(平成26)年に建物の解体時に発掘された遺構は貴重な歴史的遺産として保存されています。
資料提供:横浜都市発展記念館「本町通り・開港記念会館」明治末・大正期
大震災前の本町通りの写真です。左手前の店は骨董品を扱っていたサムライ商会(本町1丁目)。野村洋三が1894(明治27)年に開店。翌年店舗を改装、建物全体を真っ赤に塗り、楼閣上には金色の大鷲を据え付けました。本写真では、建物正面2階には閻魔像と仁王像が安置されています。店舗は大震災で崩壊したが再建。野村は1937(昭和12)年ホテル・ニューグランドの第2代会長になった人物でもあります。
写真は、本町通りの変わり果てた様子。震災直後と推測されます
中華街善隣門前にやってきました。
関東大震災が発生し、中華街も壊滅的な打撃をうけました。古いレンガ造りの建物が密集していたため、家屋は倒壊・焼失し、多くの華僑が命を落としました。
資料提供:横浜都市発展記念館「横浜中華街」(大震災前)
この写真は、大震災前の中華街の様子です1899(明治32)年、居留地が撤廃されることとなると、中国人の「内地雑居」を危惧するさまざまな声があがりました。その一つは大勢の中国人労働者の来日で日本人が失業しないかということでした。そうした世論を背景に、居留地外で仕事をする外国人には理髪・洋裁・料理業など一定の職業制限が設けられ、未熟練労働が規制されました。横浜では居留地撤廃後、旧居留地外で料理店を営む華僑も次第に増え、華僑人口は20世紀初頭には5000人あまりに達しました。また中国人商業会議所や要明公所・三邑公所などの同郷団体も設立され、華僑社会は発展をとげていきました。
資料提供:横浜市史資料室「山下町」
大震災後、生き残った人々も神戸・大阪、さらに広東や上海へ避難。上海の港には大勢の罹災華僑が上陸し、故郷の人々に迎えられて蘇州・寧波に帰っていったと言われています。こうして一時は横浜華僑は200人あまりに激減。さらに大震災後、人心が乱れる中で日本人による中国人虐殺という悲しい出来事もおこりました。(参考文献:横浜中華街ホームページより)
馬車道にやってきました。
資料提供:横浜都市発展記念館「横浜馬車道全景」(震災前)
この写真は震災前の写真で、市電が通っていてにぎやかな様子がうかがえます。
資料提供:横浜市史資料室「馬車道通り」
馬車道・関内地区も壊滅的な被害を受け、馬車道の横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)や川崎銀行横浜支店(現・損保ジャパン横浜馬車道ビル)といったごく一部の建物を除いて焼け野原となってしまいました。横浜正金銀行本店は地震の揺れには持ちこたえたものの、その後の火災で1階から3階までの内装と屋上のドームを焼失しました。こうした壊滅的な被害を受けた横浜では復興事業が進められ、この時期に新たに作られた都市の骨格が、現在のまち並みに通じています。
ご存じ、伊勢佐木町です。
資料提供:横浜都市発展記念館「伊勢佐木町通」(震災前)
伊勢佐木町には、明治初期からすでに劇場が開業していたといわれ、明治末期になると映画館や百貨店も開店、大正初期には日本一とも呼ばれる規模に成長しました。
資料提供:横浜市史資料室「伊勢佐木町通り」
1923(大正12)年の関東大震災では伊勢佐木町一帯も被害を受けたものの、いち早く復興、昭和初期には「伊勢ブラ」という言葉も生まれるなど人気のスポットになりました。。
ここは野毛山公園の展望台です。ここからの眺望は、実は穴場スポットです。
この野毛山公園も、実は震災復興事業で開園しました。
資料提供:横浜都市発展記念館「横浜野毛山より市街地を望む」
戦前の野毛山の写真です。
正面の塔は1903(明治36)年に野毛山不動尊内に建立された海員悼逝碑。碑には国際信号旗がはためいています。悼逝碑の左側に横浜停車場が、画面右奥に指路教会が見えまます。絵葉書は1907年~1918年の発行。トンボヤ刊。震災前の横浜がここでは見ることができます。
資料提供:横浜市史資料室「野毛山から新港埠頭方面を望む」
震災直後の横浜の中心地。1923年(大正12年)9月1日、マグニチュード7.9、震度7の関東大震災が発生しました。この地震による被害は東京・神奈川を中心に死者・行方不明者10万5,000人超を数え、横浜では死者・行方不明者2万6,000人超、また家屋の倒壊・焼失は3万5,000棟超に及びました。
被害は、写真の背景に広がる釣鐘上の埋め立て地で揺れによる倒壊、そして大火災が発生して、大惨事なりました。
元町のほぼ中央の前田橋方向から山手の丘を望むスポットにやってきました。
資料提供:横浜都市発展記念館「横浜元町浅間坂」(震災前)
写真にある、元町百段は今の元町にはなく現在は、横濱元町霧笛楼があります。でも大震災前は、明治のころの観光スポットだったのです。この写真は、元町百段があった大震災前のものです。明治のころに撮影された白黒写真に、後で彩色を施したものです。画面のほぼ中央に、真っすぐで急峻で長い大階段が、元町の麓から山手町に向かって聳えています。これが元町百段です。調べてみると、当時そこは本当に「浅間山」と呼ばれていたようで、同時にそこには浅間神社という富士山信仰の神社と、一軒のお茶屋さんがあったそうです。あータイムトリップしてみたい!
元町百段の頂上付近だと想定された場所には、「元町百段公園」という名前の公園があります。どのような光景なのか見に行ってきました。現在は、横浜の臨海部が一望できる穴場スポットになっていました。あいりちゃん曰く「公園の奥まで行くと景色が開けて気持ちよかったです。百段階段がある様子を下から見たら大迫力だろうなと感じました。」とコメントくれました。
資料提供:横浜市史資料室「1925年頃」
元町の復興は早く、1925(大正14)年には写真のように商店街が復活しています。まさに元町のゲートで羽ばたく、フェニックスですね。
今日たくさん廻ったので、おなかペコペコです。
そこで現在、昔、百段階段のところにあった、横濱元町霧笛楼のCafé Next-doorでランチをいただきました。
いただきますのは数量限定の横濱フランスカレー(1,800円税込)です。
国産牛肉を使用した、コクと深みのある欧風カレーです。
神奈川県ブランド米「はるみ」と「黒もち米」の炊き込みライスは、まろやかなパルマンティエ(じゃがいも)風スープと共に食べると何度かちょっとおしゃれな西洋の貴婦人の気分になります。じゃがいものスープのまろやかさと、大人の味のカレーが口の中でマリアージュ!
「カレーをかけてから食べるという初めての経験でした!ポタージュの優しさとカレーのコクが合わさり、美味しかったです。まだあのカレーの味が忘れまれません。」とあいりちゃんがコメントくれました。
ぜひ皆様もご賞味あれ。
この霧笛楼の関係者のかたも、将来的には百段階段を復活することができればと、語ってくれました。
霧笛楼 https://www.mutekiro.com/cafe/
美味しくいただきました!
今日はここまでです。
あいりちゃんの今日の感じたこととして「関東大震災については小学校でたくさん教えて貰いましたが実際に跡地に行ったのは初めてでした。たくさんの石碑や跡地あって、今の横浜の景色に昔の横浜を感じられるスポットが紛れ込んでいることに感動しました。」と実直な感想です。
今日は、関東大震災から100年の重みと、大地震の怖さを、実感し、復興のために尽力した人々の苦労が感じ取れた歴史旅でした。
これから帰って、地震に備えた準備をします。皆さんもぜひ備えを万全にしてきましょう。
※施設やお店の営業時間などは変更になっている場合があります。 事前にお調べになってからお出かけください。
協力:(公財)横浜観光コンベンション・ビューロー
レポート:小嶋 寛
写真:清水和城