2022年、鶴見が熱くなってきている。朝の連続テレビ小説の舞台の一つとして注目をされているからだ。歴史的には生麦事件が有名!そして日本の近代工業の発展を支えてきた京浜工業地帯としても認知度が高い。「でも鶴見って行ったことはない」という人多くありませんか?
そこで今回も横浜育ちの、現役女子高生 陣あいりが、わかりやすく鶴見の歴史をご紹介しちゃいます。サア、鶴見で、ちむどんどんしよう
出発は、JR鶴見駅。my routeをセットして、鶴見のまちに出発!それにしても青の「YOKOHAMA CITY Tシャツ」妙になじんできましたね。
「鶴見」の名前の由来には、二つの説があります。
一つは、鎌倉時代に源頼朝がここで鶴を放ったといわれていることからこの名前が付けられた説と、もう一つは、「ツル」は、水路や河川の周辺地の意味を持ち、「ミ」は、周りや巡りという意味を持つことから、「鶴見」という名前がついたと言われています。
横山金吾氏所蔵・神奈川県重要文化財 (写真提供:鶴見歴史の会)
まず古代にタイムトリップ、区民でもなかなか鶴見の古代を知っている人は少ない様ですね。
この写真は上末吉上台遺跡出土の人面土器です。弥生時代(紀元前5世紀頃~紀元前3世紀頃)後期のほぼ完全な形をしたものです。
この人面土器は、鶴見区制50周年を記念して編纂された『鶴見区史』刊行事業の一環として行われた1978年の発掘調査で、上台北遺跡(鶴見区末吉)から発掘されたもので、夏休み中期間中の7月24日から8月12日に行われた発掘作業には、地域の人たち延べ1000人が参加し、弥生時代の竪穴式住居址6基も確認したそうです。(鶴見区2020年区版より)
鶴見区域は古墳の宝庫ともいわれています。
ちょっと駆け足ですが中世に・・・GO!
鶴見区馬場町の坂を上った山の上。ちょっと細い道を行くと発見!寺尾城址の碑。殿山と呼ばれる丘の上には、その昔寺尾城があったと伝えられています。お城といっても天守閣のあるような立派な建物ではなく、砦のような山城であったようで、寺尾城についてはその全容はなぞに包まれています。信州の豪族諏訪氏が1436年ごろに築城し、1569年、武田信玄が小田原城を攻撃したとき、城主が小田原城の守備に出向いていて留守の間に武田軍に攻められ、落城したと伝えられています。
では江戸時代に・・・鶴見は旧東海道要所として栄えた町です。
江戸時代からの鶴見の名物といえば、清月の「よねまんじゅう」があります。
写真は、4代目の田村さん。笑顔が素敵です。
写真提供:清月
よねまんじゅうは、明治時代にいったん姿を消しましたが、戦後、鶴見菓子組合の30周年を機に復活しました。白、こし、梅の3種のあんを、柔らかい羽二重餅で包んだ優しい美味しさは何度食べても感動ものです。
さて江戸末期の幕末にタイムスリップ。
「横浜開港」を機に、1860年に造られた「鶴見橋関門」の跡地に建つ「鶴見橋関門旧跡」。その後1862年「生麦事件」が発生、更なる治安強化を目的に、東海道の川崎宿〜保土ヶ谷宿間に全部で20箇所の関門(見張り番所)が設けられました。「鶴見橋関門」は川崎側から数えて5番目の番所でした。
これらの関門は1871年に全て廃止されました(鶴見橋関門は1867年廃止)。跡地に建つ石碑は、1968年に建てられたそうです。
現在、旧東海道にかかっているこの写真の橋の名称は「鶴見川橋」。もともとこちら(現在の鶴見川橋)が「鶴見橋」でした。
さて鶴見といえば、教科書にも載っている。幕末の大事件「生麦事件」。1862年8月21日、旧東海道の一漁村生麦村で起きた英国人殺傷事件をいまに伝える「生麦事件碑」が、国道15号線と旧東海道の交流地点、キリンビール横浜工場の一角に建っています。碑には、事件当時の世情の中で、この地で非業の死を遂げた英国商人リチャードソンの死を悼む歌が記されています。この場所は、生麦事件の発生現場。事件への報復として薩英戦争が勃発したが、戦争を契機として薩摩藩はイギリスとの交流を深めて近代化を推し進め、明治維新の中心的役割を担っていきます。この碑は、1885年(明治16年)に建てられたものです。
また今年8月、生麦小学校の旧東海道沿いに、新たな歴史スポット、「生麦事件発生場所」の案内看板が誕生しました。
ではここでお腹もすいたので、鶴見の最新の話題のランチをご紹介します。
ここでは、朝の連毒テレビ小説で話題になった山原(やんばる)ナポリタンが食べられます。この企画は、日本ナポリタン学会と横浜観光コンベンション・ビューローがタックを組んだ鶴見のPRキャンペーンの一環。こちらの山百合さんも昭和の香りする素敵な喫茶店です。参加店舗は区内8店舗で8月1日~今年いっぱい食べられます。このキャンペーンの売上げの一部は、首里城の火災復旧・復興や山原の環境保全に寄付されるそうです。
さて山原ナポリタン、麵は鶴見でうった沖縄麺を使ってソーセージの代わりにスパムを使っています。ボリュウームたっぷりで、これにサラダがついて1000円はお得です。
早速いただきました。
山原ナポリタン情報は・・・こちら
昨年、11月に開園した鶴見花月園公園にやってきました。
鶴見区に約40年ぶりに開園した大きな公園で、総面積は約4.7ヘクタールあります。
高台にあり、ベイブリッジやみなとみらいが見渡せるロケーションの公園には、芝生の原っぱや遊具のある広場、健康器具などがあります。
この地には、昔、東洋一の遊園地と言われた「花月園遊園地」が開園し、とても賑わいを見せていました。その後、花月園競輪場などの変遷を経て、鶴見区の新しい顔としてハマっ子のあたらしいスポットとしてスタートしています。
但し開園後も引き続き周辺道の工事をやっているのでホームページなど事前にチェックして来園してくださいとのことです。
鶴見区HPは こちら
花月園案内図 写真提供:鶴見歴史の会
さてこの花月園ですが、大正・昭和の時代、「東洋一の大遊園地」でした。新橋の料亭花月楼の主人平岡廣高が1914年に開設し、観覧車、メリーゴーランド、豆汽車といった近代的遊具のほかにも、大山すべりやボート池、つり橋などの地形を生かした施設が人気を集めました。
花月園少女歌劇場 写真提供:鶴見歴史の会
動物園や室内スケートリンク、大運動場まで抱えた敷地は、7万坪もあったということです。「西の宝塚、東の花月園」と称された花月園少女歌劇は、日本の子どもたちの憧れの的となりました。花月園は、ダンスホール発祥の地としても知られ、子どもだけでなく、大人も楽しめる施設として、一世を風靡しました。
スフィンクスのトンネル
テニスコートと象のトンネル 写真提供:鶴見歴史の会
花月園内にあった、登山電車。とってもレトロで、今あっても乗りたい!
写真提供:鶴見歴史の会
子どものお池(安全プール)写真提供:鶴見歴史の会
その後、経営難に陥った花月園は、経営権を京浜急行に譲渡します。戦時中の閉園を経て、戦後に遊園地として再開しますが、1946年には閉園、1950年には花月園競輪場として生まれ変わりました。
ここは、沖縄タウンと呼ばれて、今話題のスポット、おきなわ物産センターです。
明治から昭和にかけて重工業が盛んで、東京大田区から川崎市や横浜市は京浜工業地帯として日本の近代化を支えてきました。このエリアは、京浜工業地帯の玄関口で浅野財閥により積極的な開発が行われました。そのため、労働力が必要となります。当時は農業が中心だった沖縄県民が収入を得るために、大阪や横浜に出稼ぎへ上京してきました。出稼ぎの人々がここを生活の場にしたことで、鶴見に沖縄タウンができました。また、現在はアジア、南米の人々をはじめ多くの外国人が住んでいます。まさに多国籍エリアです。
おきなわ物産センターの約半分は、沖縄食材の物販が所狭しと陳列されています。ぜひ迷い込んでみてくださいね。
さて現代に戻って来ました。 海芝浦駅に直結する海芝公園にやってきました。後ろに見える橋は、鶴見つばさ橋です。ここは、鶴見線の終点です。この海芝浦駅、駅から出られません。実はこの駅、降車用の改札からは「海芝公園」と東芝の工場の二通りしか行くことができず、工場の方には東芝の社員か、訪問者以外降りることができない、なんとも珍しい駅なんです。
また、こちらの駅は電車の来る間隔が非常に長く、およそ1時間に1本ほど。朝の7時や夕方17時といった発着が多い時間帯でも、最大4本なので、訪れる際は、注意が必要です。
公園の開園時間は9:00~20:30
さて今日はここまでです。次回どこに歴史旅しようかな。
※取材は新型コロナに配慮して感染予防をして取材に臨んでいます。写真撮影時のみマスクをはずしています。
※今回、鶴見歴史の会の斎藤美枝さんに大変お世話になりました。ありがとうございます。
<取材協力先一覧>
※施設やお店の営業時間などは変更になっている場合があります。事前にお調べになってからお出かけください。
協力:(公財)横浜観光コンベンション・ビューロー
※今回、鶴見歴史の会の斎藤美枝さんに大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます。
レポート:小嶋寛
写真:清水和城