特集

ヨコハマもののはじめを突撃ウォーキング

881_37.jpg

横浜を初めて訪れた方も、もちろんはまっこも!横浜の歴史に触れることにより、もっと横浜が好きになる「横浜を巡る歴史旅 ヨコハマ再発見」!ご存じの通り、横浜開港は、外国人と共に様々な文化を運んできました。好奇心旺盛な横浜生まれ横浜育ちの現役女子高生 陣あいりと「もののはじめ」ストーリーを探して横浜におでかけしましょう!これから夏を迎える皆さん!夏空の下で元気に汗をかきながら突撃ウオーキング!ヨコハマの素敵を見つけちゃおー

はじめまして、陣あいりです。今日一日よろしくお願いします。横浜の港周辺を中心に「もののはじめ」ストーリを探してガンバルゾ!

 

 

さあ、まず初めにお出かけアプリ my route をセットアップ!

地図ですが横浜市中区が出している「中区の歴史を碑(ひ)もとく絵地図」がたいへん見やすくて便利です。

 

 

 

中区の歴史を碑もとく絵地図(PDF)

 

 

スタートは開港広場の日米和親条約締結の地から、大さん橋と山下公園の通りが交差する角に位置する「開港広場」は、日米和親条約締結の地として有名な場所です。周辺には、桜の木を有する日本人のための最古のプロテスタント教会である横浜海岸教会や、横浜開港資料館などの歴史的建造物や記念碑もあり、横浜の開港の歴史を感じられる広場です。

 

 

ここは開港広場のシルクセンター前にある、英一番館跡です。1859年(安政6年)、横浜が開港。イギリス系企業のジャーディン・マセソン商会上海支店にいたウイリァム・ケスウィックは、開港と同時に帆船で横浜に来航し、ジャーディン・マセソン商会横浜支店を設立して貿易を開始。日本に進出した外資系企業の第1号といわれています。この場所、外国人居留地の一番地で、住民からは「英一番館」の通称で知られていました。

 

 

次は、山下公園内にある西洋理髪発祥の地。1871年(明治4年)、政府が断髪令(散髪脱刀令)を出したことにより、男子は髷(まげ)を結わずに散髪にする風潮が徐々に広まっていきました。
散髪にした頭は「ザンギリ頭」と呼ばれ、文明開化の象徴となり、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という言葉まで生まれました。山下公園にある彫刻の名称はちょっとびっくり「ザンギリ」です。

 

 

さてお次は近代のパン発祥地。平成 28 年(2016)11 月、大桟橋入口交差点近くの歩道と車道を分ける植え込みに、御影石でできた近代のパン発祥の地の碑の除幕式が行われました。日本で初めてパン屋が開業したのは 1860 年(万延元年)。幕府が設置した外国人日用食品街お貸し長屋で、フランス人に製法を教わり内海兵吉が始めました。その後、イギリス人が開業し、そこで修行をした内木彦太郎が元町で開業、これが現在も続くウチキパンです。
(あとでも紹介します。)

 

 

さて日本大通りに・・・神奈川県庁前にある横浜港(みなと)郵便局は、外国郵便創業の地です。西側の入口の壁面に、創業を示す黒色のプレートが掲げられています。創業 100 年を記念して表示されました。明治のはじめ、国内の郵便制度は徐々に整備されていきましたが、海外との郵便物は各国の領事館などがとりまとめて送受していました。その後、まずアメリカとの間で郵便交換条約が締結され、新設の横浜郵便局で外国郵便の業務が開始された。これが現在の横浜港郵便局です。

 

 

信号を横浜公園側に渡ると電信創業の地。1869 年(明治2年)12月25日この場所にあった横浜電信局と東京電信局の間で、日本ではじめて電報の取扱がおこなわれた記念の場所です。

 

 

横浜情報文化センターの駐車場横に消防救急発祥之地はあります。1871 年(明治 4 年)から 1899 年(明治 32 年)まで居留地消防隊があり、日本初の消防車や救急車が配置されていました。

 

 

道路を渡りレストラン「かをり」の前にあるのはホテル発祥の地のプレート。日本で初めての近代ホテル「ヨコハマ・ホテル」がこの地にありました。
1860 年(万延元年)に、オランダ人船長C・Jフフナーゲルが開業しました。横浜の cocktail の発祥「バンブー」もこのホテル生まれです。

 

 

横浜公園のブライトンの碑まで歩いてきました。本名は、リチャード・ヘンリー・ブラントンは、イギリスのスコットランド出身の土木技術者で、明治政府に灯台建設主任技術者として雇われ、明治初期の灯台建設を指揮しました。勤務していた7 年 6 ヶ月の間に灯台 26 などを設計(その 1/3 以上が現役)。「日本の灯台の父」と讃えられています。イギリス軍艦に乗って灯台の建設場所の選定・設計・測量を行い、技術者 24 人を指揮して灯台建設を進めたとのことです。
もちろんなぜここにいるかというと日本大通りの設計や「鉄(かね)の橋」(吉田橋)は、橋長 24m、幅員 6m の日本最初のトラス鉄橋であり、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。
ブライトン氏は灯台の仕事以外でもさまざまな活躍をしています。大火事で荒れ果てた横浜の居留地を近代的な市街地にする街づくり計画に参画しています。
実測を行い、防災にも十分配慮して広い道路や鉄橋、さらには下水道や街頭なども含めた多くの設計図を作成したといいます。
また、東京-横浜間の鉄道や大阪、新潟、横浜の主要な港づくりなどにおける提案や助言など、数多くの案件の相談や依頼にこころよく応じ、発展に寄与したといいます。 いわばコンサルタントの先駆けのような人だと思われます。
日本政府からの依頼はあくまで灯台の設計・設計だけだったはずが、やがて都市計画にまで貢献しています。ただ単に技術・知識があっただけでなく、人柄や誠実さが素晴らしかったのが容易に想像できます。また、そのチャレンジ精神も見習うべき偉人だと思います。

 

 

ブライトンさんありがとう!

 

 

さて、みなとみらいの帆船日本丸にやってきました。今日はすべての帆を広げる「総帆展帆」の日なんですね。現在の日本丸の帆(セイル)は全部で 29 枚あります。自動で帆を広げたり、たたんだりしていると思っている方もいるかもしれませんが、すべて手作業で広げています。この作業は訓練を終えて登録されているボランティアの方々の協力で行っています。約 2,000 人あまりの方が登録されていますが、総帆を展帆するためにその中から毎回 80人ほどのボランティアの方々が参加しています。

 

 

帆船日本丸は1930 年(昭和 5 年)に建造された練習帆船です。1984 年(昭和 59 年)まで約 54 年間活躍し、地球を 45.4 周する距離(延べ 183 万 km)を航海し、11,500 名もの実習生を育ててきました。1985 年(昭和 60 年) 4 月から、みなとみらい21 地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています。
では船内に・・・

 

 

船内デッキをはじめ様々なロープがあります。ロープ結びってすごい!

 

 

船内には医務室も

 

 

士官サロンには、ステンドグラス細工が・・・

 

 

帆(セイル)って本当に大きいのですね。

 

 

舵輪ですが帆走中は帆の状態を見ながら、舵をとるので、舵輪は船の一番後に置かれています。村田信船長と記念写真です。

 

 

取材協力ありがとうございました。

さて併設されている横浜みなと博物館と柳原良平アートミュージアムは6 月 28 日(火)にリニューアルオープン。夏休みは帆船日本丸に行かなくちゃ!
詳細はこちらから(https://www.nippon-maru.or.jp/

馬車道エリア/写真の開祖下岡蓮杖・日本で最初のガス灯・アイス

 

 

馬車道にやってきました。平安堂薬局の清水会長さんとツーショット。平安堂は 1870 年(明治 3 年)創業。薬剤師が経営する薬局として、馬車道で 150 年の歴史を刻んでいます。
馬車道アイスも売っています。

 

 

馬車道の中央部にある下岡蓮杖顕彰碑。下岡蓮杖は、1862年(文久2年)に野毛で開業し、のちに馬車道に写真館を新設。多くの門下生を育てました。碑の上にのっているのは、当時の写真機をイメージしたものです。

 

 

素敵なガス灯と前で・・・

「馬車道」の名前の由来は、昔関内にあった居留地に住む外国人の馬車や、日本で最初といわれる乗り合い馬車の通りであったことからだそうです。通りには、ガス灯や街路樹といった日本最初のものがあり、文明開化によって急速に近代化した歴史を感じることができます。ぜひを散策して文明開化の歴史に触れてみてください。

 

 

アイスクリーム発祥の碑の前で最中のミルクアイスいただきます。

碑文にもあるように、この場所は明治初年に初めてアイスクリームを販売した所。彫刻のテーマ「母子像」とどういう関係は不明ですが。碑としてはかなりユニークだと感じました。

 

 

ちょっと足を延ばして横浜中華街のラグビー発祥の記念碑を紹介します。

日本ラグビーの発祥には諸説ありますが、有名なのは、1899 年に慶應大の英語講師 E・B クラーク氏が、学生たちに教えた、という事始め。今回記念碑が建てられたのは、それよりも前に、外国人によってラグビーがプレーされていたことを記すものです。発見のきっかけは、「横浜フットボールクラブ」の後継団体(YC&AC)のメンバー、マイク・ガルブレイスさんが、まげを結った日本人の前で英国人がラグビーをするイラストが掲載された雑誌「ザ・グラフィック」(1874 年 4 月 18 日号)を入手したこと。この光景は 1873 年(明治 3 年)(クラークさんのラグビー指南の 26 年前)に横浜で行われたラグビーの模様でした。歴史を調べていくと、横浜に駐屯していた英国兵らが 1866 年(慶応 2 年)に設立した「横浜フットボールクラブ」が、アジア初のラグビークラブだといえることが分かりました。これを受けて神奈川県ラグビー協会の長井勉さんが記念碑設置の活動を始め、「ラグビーワールドカップ 2019」の年の 9 月に完成に至ったとのことです。

 

 

元町ショッピングストリートのウチキパンの前にやってきました。
ウチキパンの歴史は「横浜ベーカリー宇千喜商店」として始まりました。 横浜港開港以来増えていた在日外国人向けに立ち上がったベーカリーで修行した打木さんが立ち上げられたお店で、一般向けに食パンを売り出した日本最初のお店と言われています。 イギリスの職人の方から習ったその食パンは、その名も「イングランド」です。また写真の袋はインスタ映えすると人気です。

 

 

元町の道路にあるおしゃれなベンチ「元町パークレット」でちょっとパンを食べながらの休憩です。

あいりさん感想は・・・「硬さと柔らかさが絶妙で、すごく美味しかった。歴史もあるけれど、それだけじゃなくて、今も愛されているんだなと思った。」とのことです。

 

 

元町って日本が近代文明に出会った初めの山手に住む外国人向けにスタートした商店街なんですね!

 

 

山手エリアを紹介していきましょう!
フランス山の入り口にやってきました。ちょっと変わったこの碑は横浜ボウリング発祥の碑です。日本で最初のボウリング場は、1861 年(文久元年)に長崎に出来たとされていますがが, 横浜においては, その 3 年後の 1864 年(元治元年)にこの場所に開場しました。

 

 

この日は谷戸坂のすぐ下にある、クリーニング業発祥の碑です。横浜が開港すると外国人相手のクリーニングの需要が増大。1859年(安政6年)、神奈川宿の青木屋忠七が本町一丁目(現在の五丁目)で西洋洗濯業をスタート。ついで岡澤直次郎が元町に清水屋を開業し、1867年(慶応3年)に脇澤金次郎がこれを継承して谷戸坂で営業を行ったそうです。

 

 

山手の坂を上り、北方へと下ったところに、麒麟麦酒開源記念碑はあります。
この場所は、1870年(明治3年)、米国人ウィリアム・コープランドが設立した「スプリング・バレー・ブルワリー」というビール醸造所があった場所です。コープランドは日本で初めて継続的にビールの醸造・販売を行い「日本のビール産業の祖」といわれています。その後、ビール醸造所はジャパン・ブルワリーに引き継がれ、1888年(明治21年)に「キリンビール」が発売されました。
1907年(明治40年)には麒麟麦酒株式会社が設立され、1923年(大正12年)の関東大震災までこの地でビール醸造を行っていたそうです。

 

 

山手公園にある、日本庭球発祥の地碑にやってきました。
山手公園は、 1870年(明治3年)に横浜居留地外国人のレクリエーション施設として造られた日本最初の様式公園です。1878年(明治11年)には、「レディース ローン テニス アンド クロッケークラブ」(現在の横浜インターナショナルテニスクラブ)が結成され、5面のテニスコートが造られました。そのため、山手公園は日本における庭球発祥の地とされています。
園内の「テニス発祥記念館」は、横浜インターナショナルテニスクラブ創立120周年を記念して建てられたもので、テニスの歴史パネルなどが展示されています。

 

 

ものすごく急な階段を上り最後に本牧山妙香寺、君が代・日本吹奏楽発祥の地を訪問しました。とても親切にわかりやすく山務員の赤塚玄典上人様が碑について解説してくれました。
境内には、明治維新の折、16歳から26歳までの若き薩摩藩士30名余がこのお寺に寝泊まりしながらイギリス軍に日本で初めて吹奏楽を教えてもらい練習したことから、「日本吹奏楽発祥の地」の碑が境内に建てられたとのことです。さらに、諸外国との外交儀礼の中で国歌の必要性があったことから、歌詞は古今和歌集から選ばれ、それにイギリス軍の軍楽長が音楽を付けこのお寺で完成したので「国歌君が代発祥の地」の碑が建てられたとのことです。

 

 

あいりさん曰く「今まで歌ってきた国歌が、別のオリジナルを編曲したものだったことには、まさか!と驚いた。オリジナルと聞き比べてみたいと思った。」そうです。

 

 

赤塚上人様、説明ありがとうございました。

あいりさん今日一日お疲れさまでした。初めての取材どうでしたか?
「今まで横浜市民であることに漠然と喜びを感じていたけれど、今回横浜から全国、世界へ広まったものを沢山勉強することができ、市民としてとても誇らしい気になりました。
麒麟麦酒開源記念碑はすごく大きくて迫力があったし、ボウリングや庭球の発祥の碑では、そんな記録も残っているのか!と驚き、そして魅力を感じることができて、とても楽しかった。15 年間横浜に住んでいるけど、知らないことばかりで驚きの連続でしたこれからももっと横浜について深く知り、広く伝えていきたいと思いました。」と感想を述べてくれました。
今日の取材は、ここで終了です。あいりさんお疲れ様でした。

※取材は新型コロナに配慮して感染予防をして取材に臨んでいます。写真撮影時のみフェイスマスクをはずしています。

<取材協力先一覧>
※施設やお店の営業時間などは変更になっている場合があります。
事前にお調べになってからお出かけください。

取材先一覧


協力:(公財)横浜観光コンベンション・ビューロー
レポート:小嶋 寛
写真:清水和成

 

ヨコハマ再発見
伊勢佐木町・関内
SHARE