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横浜の発展を支えた、渋沢栄一ゆかりの地を巡る旅

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横浜を初めて訪れた方も、もちろんハマっ子も!横浜の歴史に触れることにより、もっと横浜が好きになる「横浜観光親善大使と巡る歴史旅 ヨコハマ再発見」!
今回は、今NHKの大河ドラマ『青天を衝け』や新1万円札(2024年刷新)で話題の人物、渋沢栄一。意外にも横浜との関係が深いことにビックリ!そこで横浜のみなと周辺を歩いて皆さんと一緒にその痕跡を探っていきたいと思います。題して「横浜の発展を支えた、渋沢栄一ゆかりの地を巡る旅」をお届けします。

 

 

旅のナビゲーターはもちろん第18代横浜観光親善大使の首藤櫻(しゅどうさくら)さんと稲垣薫(いながきかおる)さん。今日は少し大人っぽく夏の装い、和装でご案内します。モチロン、my routeで検索して、いざ出発。

 

 

さてこの銅像の人物である渋沢栄一は、若かりし頃、「横浜洋館の焼き討ち」が未遂に終わったことが大河ドラマで紹介されましたが、明治に入ってから、渋沢栄一と横浜の関係が深く、現在、観光スポットにもなっているところが多く関係することに驚かされます。
旧横浜船渠㈱のドック(現、みなとみらいにあるドックヤードガーデン)や馬車道の神奈川県立歴史博物館(旧、横浜正金銀行)また渋沢氏の従兄が営んでいた「渋沢商店」なども本町通りにあり、まさに日本の近代化の立役者であり「日本資本主義の父」とも呼ばれた人物が、横浜と関係が深いことは、当時、横浜が日本経済の中心であったことが伺えます。

 

 

まずはじめに、日本大通りにやって来ました。横浜開港資料館旧館は、1972年まで英国総領事館として使われていました。渋沢栄一は若かりころ尊王攘夷を唱える志士でした。この総領事館周辺はまさに日本の開港を巡る舞台の地。渋沢たち志士たちが計画し、未遂に終わった「横浜洋館の焼き討ち事件」を伝えるものとしては、大事な歴史の一コマかもしれません。
横浜開港資料館は、横浜の歴史に関する資料を収集し、閲覧・展示・出版などにより一般に公開する施設です。横浜の歩んできた道を、資料を通じて次の世代に伝えていく、「近代横浜の記憶装置」 としての役割を果たしています。
現在、横浜開港資料館では開館40周年記念「七つの海を越えて」
~開国前後の日本とイギリス~
期間:2021年7月17日(土)~11月7日(日)を開催中です。

http://www.kaikou.city.yokohama.jp/news/

 

 

横浜開港資料館 西川武臣館長突撃インタビュー「蚕の卵が繋ぐ横浜と渋沢栄一」
“たまくす”の樹の前で写真撮影に応じてくれた西川館長に、横浜と渋沢栄一の繋がりについてお聞きしました。
「横浜での渋沢栄一(以下栄一・インタビュー内)の功績はたくさんありますが、私がお話ししたいのは蚕の卵と栄一との関わりです。横浜が開港したばかりの頃、フランスやイタリアでは、生糸の原料である蚕の病気が大流行していました。そのためフランスやイタリアは病気にかかっていない日本の蚕の卵を輸入しようとしました。この時、栄一は生家があった利根川の流域、現在の群馬県南部から埼玉県北部の養蚕農家が生産する蚕の卵を輸出することを計画しました。特に栄一の幼馴染であった田島弥平が住んでいた現在の伊勢崎市島村の養蚕農家を組織化し、今でいう株式会社組織にして、この会社が海外に蚕の卵を横浜から輸出していくことを田島と協力しながら推し進めていきました。
生糸貿易は、明治時代の日本の近代化に貢献した産業であり、横浜では茂木惣兵衛・原三溪などの豪商が生糸を扱い、彼らは日本の殖産興業に大いに貢献しました。横浜の豪商のバックには銀行があり、銀行というビジネスを日本に根付かせたのも栄一であり、栄一の力には底知れぬものがあったようです。」
とお話しいただきました。西川館長ありがとうございました。

横浜ランドマークタワーに隣接する、ドックヤードガーデンにやってきました。ここは昔、旧横浜船渠株式会社第二号船渠(1896年竣工・1997年国重要文化財に指定)だったんです。

 

 

 

ビックリするぐらい広いんです。現在は、ライブ、コンサートから各種イベントなどに対応する屋外スペース。日本に現存する商船用石造りドックとしては最も古い「旧横浜船渠第2号ドック」を後世に伝えるべき資産として復元して生まれたのが「DOCKYARD GARDEN(ドックヤードガーデン)」なんです。

 

 

イギリス人技師・パーマーは、港湾の発達には船渠(ドック)・倉庫などの付帯設備の充実も不可欠であることを説き、それを受けて渋沢栄一と地元の財界人らにより横浜船渠が1889年に設立され、その後横浜船渠株式会社となりました。1896年に2号ドックが、1898年に現在日本丸が停泊している1号ドック完成。会社は1935年、三菱重工業に吸収合併されました。現在、2号ドックは、「ドックヤードガーデン」として生まれ変わり、1号ドックは「日本丸メモリアルパーク」として保存され帆船日本丸が存地され、それぞれ国重要文化財に指定されています。

 

 

写真後方には「NO1 DOCK」の文字が・・・その奥が帆船日本丸です。

 

 

現在は日本丸メモリアルパークとして生まれ変わっています。
※現在横浜みなと博物館が2022年4月頃まで休館です。帆船日本丸は見学できます。

さて、馬車道通りにある神奈川県立歴史博物館にやってきました。もとは横浜正金銀行でした

 

 

 

(写真提供:横浜開港資料館)

 

 

当時の風景と現在。外観が変わっていないのが、すばらしいです。
1880年開業の横浜正金銀行は、外国貿易での日本の不利益を軽減するために現金(正金)での取引を主とし、その後は貿易金融専門の銀行となります。渋沢栄一は、株主の一人となりました。また、後に日銀総裁となる孫の敬三は、栄一の意を受け銀行家の道を進むべく、大学卒業後この銀行に入行します。大正時代には世界三大為替銀行の一つにまでなりましたが、戦後解体され、業務は東京銀行(現・三菱UFJ銀行)に受け継がれました。

 

 

(写真提供:横浜都市発展記念館)

この正金銀行のあった、馬車道は、当時モダンな建物が並んでいた、ハイカラ通り。明治・大正のころに戻って馬車道を歩いてみたいです。渋沢栄一もこの通りを国の役人としてまた銀行マンとして馬車に乗って通り過ぎた風景が想像できます。

 

 

次に、本町通りにやってきました。後ろの建物はアールデコ調のモダンでおしゃれな横浜銀行協会(旧横浜銀行集会所)です。
この建物を所有する、一般社団法人横浜銀行協会は、神奈川県内に本・支店を置く銀行を社員とし、手形交換所の運営、防犯・消費者保護業務、地域経済活性化事業等を行う団体です。

 

 

(写真提供:横浜都市発展記念館)

写真は、本町通りの明治末・大正期。左手前の店は骨董品を扱っていたサムライ商会(本町1丁目)。野村洋三が1894年に開店しました。翌年店舗を改装、建物全体を真っ赤に塗り、楼閣上には金色の大鷲を据え付けたと言われています。建物正面2階には閻魔像と仁王像)が安置されていました。店舗は関東大震災で崩壊しましたが再建。野村は1937年ホテル・ニューグランドの第2代会長になった人物です。

 

 

渋沢商店(写真提供:横浜開港資料館)

また本町通りには、渋沢栄一の従兄であった渋沢喜作が興した渋沢商店もありました。喜作は、明治維新後、生糸に関する研究をするためにヨーロッパに留学。帰国後の1875年、東京に渋沢商店を開業。当初は地方の生糸商人や米穀商を相手にした荷為替をおこなっていましたが、その後、東京で廻米問屋、横浜では1879年に生糸売込問屋を始めました。その後、横浜の店は横浜を代表する生糸貿易商になっていきます。喜作の店は時に経営困難になったこともありましたが、栄一は一貫して喜作を支援したと言われています。

 

 

馬車道の一本桜木町寄りの「六道の辻」にやってきました。後方には、レトロなカフェ&レストラン、馬車道十番館が見えます。
「六道の辻」のいわれは、・・・ここでは話が長くなるので省きますが仏教用語です。
六本の道が交差する六差路が昔そこにあり、そこを「六道の辻」と呼んでいたことが由来と言われています。この六差路は、昭和の初めのまちづくりによって廃止となったそうです。

 

 

勝烈庵にやってきました。今日は炎天下のなか歩く場所も多くお腹がぺこぺこです。夏バテ解消も兼ねてヨコハマ名物を頂きます。
勝烈庵は、1927年創業。外国人コックさんが居留地関内にもたらした「カツレツ」を初代庵主の工夫で独特のカツレツとして完成させた横浜を代表する味です。

 

 

写真は名物、勝烈定食(ヒレかつ)1760円。
厳選された食材、特製の生パン粉、野菜と果物を2日間煮込んで、1日寝かせて作る秘伝のソース。さらにはしじみのお味噌汁とお新香。全てにおいてのこだわりと伝統、そしてモダンを凝縮させた逸品です。
さてここのお箸ですが、世界遺産吉野熊野古道山林の杉の端材・間伐材を有効利用して作られたこのお箸は安心安全な日本製。天然の素材は健康にも良く、森林資源の再生と育成に役立つ自然環境に優しい製品とのこと。宮内庁御用達の箸勝本店のこのお箸、食事後は箸袋に納めてお持ち帰り頂き、水洗いして、ご家庭でもぜひご使用くださいとのことです。

 

 

さあ、いただきます。秘伝のソースをたっぷりかけて・・・・
櫻さん曰く「昔から勝烈庵が大好きで、行くとよく大勝烈定食を食べていました!笑 カツはもちろん最高に美味しいのですが、定食でセットになっている大根のお漬物、しじみのお味噌汁もとても美味しくて家で再現しようと試みたことがあるくらい好きです。」とのこと

 

 

薫さんにも感想聞いてみました。「お肉は柔らかく外のサクサクとした衣、濃く少し甘めに仕上がった勝烈庵秘伝ソースの組み合わせはやはりいつ食べても美味しいです。ボリュームも十分ありバランスの良い定食に大満足です。」二人ともぺろりと食べていまいました!
さあ、エネルギーチャージもできました!残りの取材続行!
勝烈庵の本多初穂社長!取材にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

食事の後は象の鼻テラスにお邪魔しました。
象の鼻テラスは、横浜市・開港150周年事業として、2009年6月2日に開館しました。
横浜港発祥の地を、横浜の歴史と未来をつなぐ象徴的な空間として整備した象の鼻パーク内に、アートスペースを兼ね備えたレストハウス(休憩所)として、「文化芸術創造都市クリエイティブシティ・ヨコハマ」を推進する文化観光交流拠点の一つです。
現在は、アート、パフォーミングアーツ、音楽など多ジャンルの文化プログラムを随時開催しています。
またパークの突堤部分に注目すると、明治中期の姿に復元しているほか、渋沢栄一が同行した、徳川昭武一行がフランスに向けて出航した頃の様子が、舗装パターンを変えて表現されていることが確認できます。

 

 

テラスの中には、大きな象さんがお迎えしてくれます。
《時をかける象(ペリー)/ THE 'PERRY' SYMBOL》(2009) 椿昇 / Noboru Tsubaki

 

 

仲良く2匹なのに象さん3(サン)これいかに(笑)
《ペリコ/ Periko》(2012) 椿昇 / Noboru Tsubaki

 

 

ハイとってもかわいいでしょ!インスタ映え間違いなし!ゾウノハナソフトクリーム420円。でも早く食べないと溶けて、かわいそうな象さんになっちゃいます。

 

 

「小学生の皆さん夏休みの自由研究にぜひ象の鼻テラスに来てください。横浜のこと、アートのことたくさん学べますよ!」

 

 

 

横浜人形の家にも渋沢栄一の業績が展示されていました。

 

 

 

日米関係が緊迫する1927年、民間レベルでの友好と相互理解を深めるため、「親善人形」としてアメリカの子どもたちから、日本の子どもたちへ贈られたのが、約12,000体の青い目の人形です。渋沢栄一は、その受け入れに大きく尽力し、返礼として日本からアメリカへ「答礼人形」を贈る計画にも奔走しました。「横浜人形の家」には当時の青い目の人形と、レプリカの答礼人形が展示されています。
戦時中に多くの人形が失われましたが、残ったものは今も渋沢栄一らの思いを伝えています。

 

 

中区諏訪町にある、横浜市立北方小学校の敷地内の「ビール井戸」にやってきました。学校の敷地内で見つけにくいですが、道路から十分見えますので、学校の敷地には許可なく入れませんので通りから車には気をつけて見学をお願いします。
また近くにはキリン公園がありその中にも麒麟麦酒開源記念碑があります。
この公園は、1870年、米国人ウィリアム・コープランドが設立した「スプリング・バレー・ブルワリー」というビール醸造所がありました。「スプリング・バレー・ブルワリー」は、その後経営破綻しましたが、後藤象二郎、岩崎弥之助(三菱財閥2代目総帥)、益田孝(三井物産初代総轄)等とともに渋沢栄一も出資し1885年に設立したのが「ジャパン・ブルワリー」。1888年には「キリンビール」を発売しました。後に、麒麟麦酒株式会社が設立され、関東大震災までこの地でビール醸造をおこなっていました。この井戸はその物語を後世に伝えるために残存しているビール遺構です。

 

 

今回の横浜再発見の旅はここまでです。
皆さん熱い日が続きますので、「ヨコハマまち歩き」をする際には十分水分補給をしてくださいね。
※尚、取材時にはマスクをはずして写真撮影に臨んでいますが、それ以外の時には感染防止に十分配慮して取材を行っています。

<衣装協力>

 

 

<取材協力先一覧>
※お店の営業時間などは変更になっている場合があります。事前にお調べになってからお出かけください。


協力:公益財団法人横浜観光コンベンション・ビューロー
レポート:小嶋 寛
写真:清水和成

 

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